最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
2016年、(福重小5年生の総合学習)福重の神社・寺、城跡、人物の講話(概要報告)

日時:2016年1月21日14時10分〜14時55分 (上記横長写真は、上野の講話中のもの)
参加数:
全体で37名(福重小学校5年生と先生)
場所:福重小学校・5年1組教室
主なテーマ:福重の1)神社・寺、2)城跡、3)人物など
講師:上野
概要:今回の総合学習は、上記にも書いています通り、福重の1)神社・寺2)城跡3)人物などでした。別途3ページの配布資料と、A3サイズ写真15枚を示しながら説明しました。時間の関係で質疑応答の時間は、あまりとれませんでしたが、城跡などで関心があったようでした。

  全部の説明が終わった後、児童代表及び全員から丁寧なお礼がありました。下記の表の写真や紹介文は、説明した主な内容です。なお、右側写真は、講話終了後に児童がグループ別討論をしているところです。(下記の写真や名称のところにリンクがあるのは、詳細ページに飛ぶようになっています)
1)神社・寺 (概略紹介)
大神宮(だいじんぐう) :今富町 最初(さいしょ)1542年に大村純前(おおむら すみさき)が今富城内(いまどみじょうない)にたてた。その後の今富の尾崎(おさき)にうつり、さらに1671年、今の所(ところ)に再建(さいけん)された。1年ごとに草場の松尾神社(まつのおじんじゃ)と交代(こうたい)で、秋におくんちがおこなわれている。福重小学校の児童は、くんちの時に、子ども相撲大会に出ている人も多い。
松尾神社(まつのお じんじゃ) :草場町 1548年に大村純前(おおむら すみさき)が、今よりも北の方にたてた。そして、1670年に今の所(ところ)に再建(さいけん)された。  1年ごとに今富の大神宮(だいじんぐう)と交代(こうたい)で、秋におくんちがおこなわれている。このくんちに、福重小の児童は、子ども相撲大会に出ている人も多い。
妙宣寺(みょうせんじ) :福重町  1602年、大村喜前(よしあき)が宮小路(みやしょうじ)にたてた。そして、1614年に今の所(ところ)にうつされた。  毎年(まいとし)、さまざまな行事(ぎょうじ)が、おこなわれている。秋には、竹とうろうが、たくさん灯(とも)されている。

 はかにも、下記のような神社が各町内にある。(注:まだまだ、下記以外にもある)
  ・重井田町---太神宮(だいじんぐう)
  ・野田町-----本蔵権現(もとくらごんげん)
  ・立福寺町---六社権現(ろくしゃごんげん)
  ・弥勒寺町---熊野権現(くまのごんげん)
  ・今富町-----不動尊(ふどうそん)高野権現(たかのごんげん)熊野権現(くまのごんげん)
  ・福重町-----祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)
  ・沖田町-----祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)鹿大明神(しかだいみょうじん)
  ・皆同町と寿古町-----かまど権現(かまどごんげん) 

2)城跡 (概略紹介)
(1)今富(いまどみ)城跡-----皆同町 戦国時代(せんごくじだい)にできた。名前は当時(とうじ)、ここも「今富村」だったからである。大村純忠(おおむらすみただ)の頃の横堀(よこぼり)=空堀(からぼり)が出てきた。 今でも、切通(きりとおし)は、福重住民センター近くから登っていける。元は、もっと大きな大きさがあったが、工事などで丘が削られた。

(2)好武(よしたけ)城跡-----寿古町 戦国時代(せんごくじだい)にできた。大村純治(おおむらすみはる)がつくったという。城の名前は、地名の「好武」からである。今でも本丸跡(ほんまるあと)、土塁(どるい)、櫓台(やぐらだい)などの跡(あと)が、見れる。

(3)尾崎(おさき)城跡-----今富町 戦国時代(せんごくじだい)にできた。今富 (いまどみ) 氏がつくった説(せつ)もある。本丸(ほんまる)、二の丸、三の丸もあった城であった。場所は、今富橋近くの小高い丘にあった。

(4)岩名(いわな)城跡-------今富町 戦国時代(せんごくじだい)にできた。今富 (いまどみ) 氏がつくった説(せつ)=屋敷(やしき)みたいな城だったのかもしれない。 「岩名(いわな)」とは、地名(ちめい)のことである。場所は今富公民館近くの個人宅と、その東側にあるブドウ園周辺である。

(5)江良(えら)-------草場町 戦国時代(せんごくじだい)にできた。JR大村線の草場の踏切(ふみきり)より東の方にある丘(おか)にあった。 城の名前の「江良(えら)」とは,地名(ちめい)のことである。この城は、大村の北の守りの城だったと思われる。

(3)人物  (概略紹介)
浜田 彪(はまだ ひょう):野田町生まれ <校長室に写真(しゃしん)がある>
 ・三菱造船所(みつびしぞうせんしょ)で、設計技師(せっけいぎし)として、はたらかれた。
 ・第6代所長(しょちょう)にもなられ、造船所を大きく発展(はってん)させた人である。
 ・長崎県立図書館(ながさきけんりつ としょかん)などの費用(ひよう)を、たくさん出された。
 ・福重や大村出身者で(東京在住の)学生などに育英資金(いくえいしきん)を、たくさん出していただいた。
 
高見 米一(たかみ よねいち):寿古町生まれ <校長室に写真(しゃしん)がある>
 ・小学校の先生をして、あとで校長先生となり、福重小学校の校長先生もされた。
 ・歌(うた)の作詞(さくし)もされた。大村小学校の校歌(こうか)、福重婦人会歌(ふくしげふじんかいか)、福重青年団歌(ふくしげせいねんだんか) など。
 ・大村の歴史(れきし)の本をたくさん、書かれた。そのあと、その本が教科書(きょうかしょ)みたいにして、たくさんの人に読まれた。
 ・たくさんの人から慕われ(したわれ)た人である。(お葬式の列が約1キロも続いたという)
 



最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク