| 大村辞典 | ”え”の項目 |

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”え”の項目
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榎木茶屋河川公園(えのきちゃや かせんこえん) 所在地:大村市中岳町<郡川の左岸><概略説明> 大村市河川公園課設置の案内板には次の<>内のことが書いてある。<榎茶屋の由来 この付近には榎茶屋という地名がついています。今でも榎の木が見られますが、ここに、昔茶屋があったことからこの地名が付けられたといわれています。黒木の山には江戸時代から杉の植林が行われてきました。特に江戸時代前期に千葉卜枕により黒木八丁谷に杉の植林が行われ、二百〜三百年の間に大変大きな木に育っていました。 明治時代に、海軍の佐世保鎮守府に多くの材木を送るために盛んに伐採が行われ、材木を運ぶため、黒木から大村湾に面した今津までの道が設けられ、牛が引いて荷車に切り出した材木を積んでいました。道が悪く、運び出しに大変苦労したそうです。ちょうどこの付近に茶屋が設けられており、材木を運ぶひとたちにが休憩したと伝えられています。 榎は樹勢が強く、葉がよく茂り日陰を作るため、昔から街道の一里塚などに植えられ、往来の人々に休憩場所を提供してきました。また、江戸時代の前期、四代藩主大村純長(すみなが)が遊興の地として訪れ、茶会を開いたの地名の由来とも伝えられています。> この<b>河川公園の広さは、下流側にあるトイレ、駐車場周辺から上流側の端側(山谷川)まで目測ながら長さ約150m、横幅は約20m弱あるようだ。、 (掲載日:2025年11月1日) <関連詳細ページ>・(福重ホームページの)観光案内板『榎木茶屋河川公園(えのきちゃや かせんこえん)』 |
江良城(えらじょう) 所在地:大村市草場町<字「江良(えら)と「釜の内」にまたがる> <概略説明>草場町にかつてあった江良城は、江戸時代に描かれた大村藩領絵図に「エラノ城」の文字表記がある。この城の立地条件は尾根の先端にあたる。推測の域を出ないが、今富城を本城とするなら、この江良城は北の守りの位置に当たる所である。(掲載日:2011年3月14日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)江良城』 |
(下原口公園の)掩体壕(えんたい ごう) 所在地:大村市原口町<概略説明> この掩体壕は大村海軍航空隊に所属していた戦闘機をアメリカ軍の空襲から守るために造られた分厚いコンクリートの格納庫であった。現在は公園の遊具にとしても使われているため大きさも設備内容も少し変わっている。しかし、底部が地面に1mほど埋まっている以外は外観や造りそのものは戦争当時の掩体壕の原型を留めている。なお、推測ながら当時の大きさは高さ8m強、横幅24.5m程であったろう。造られた年は正確には不明だ。しかし、1944(昭和19)年撮影の航空写真に同じ場所で同じような形が、かすかに見えているので推測ながら1944年か、その前年頃ではないだろうか。内部に天井部や左右側の重さを支える構造物はなく、戦前当時そのままである。この頑丈な構造物は戦争遺跡としてだけで見るのではなく当時の建築技術(水準)を推測できるものではないかとも思われる。(掲載日:2021年8月30日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『(下原口公園の)掩体壕』 「大村海軍航空隊」 |
延命寺跡(えんみょうじあと) 所在地:大村市松原三丁目<旧松原村北木場今山><概略説明>紫雲山延命寺(しうんざん えんみょうじ)は禅宗の寺院で郡七山十坊の一つであった。寺院名と創建年号が彫り込まれている紫雲山延命寺の標石には「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」<紫雲山延命寺の創建は天平二十年(西暦748年)8月である>との碑文がある。この標石の創建年号が正しければ太郎岳大権現とともに大村では最も創建が古い方である。『紫雲山延命寺縁起』によると「この寺院は元来、法相宗(ほっそうしゅう)であった」とあり、その後、真言宗に宗旨替えがあり、さらに禅宗に替わった。奈良時代に興った南都六宗(なんとりくしゅう)という古い宗派一つだった。 天正2年(1574年)キリシタンにより破壊。正保4年(1647年)この地に十二社権現が建立された。(掲載日:2012年7月28日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)延命寺跡』 |
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