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大村辞典
はじめに
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大村辞典 か”の項目

か”の項目
皆同の侍の墓(かいどうのさむらいのはか) 所在地:大村市皆同町
<概略説明> この墓は、古記録(大村)郷村記などに記載されていない。しかし、地元の伝承で長年「侍が切り死にしたもので、その侍の墓だ」との内容で伝わってきた。現在まで皆同町のある個人宅でまつられてきた関係上、墓周辺はきちんと整備、保存されている。(詳細は、下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)皆同の侍の墓

籠立場跡(かごたてば あと) 所在地:大村市中里町(鈴田峠)
<概略説明> この籠立場跡は鈴田峠の旧・長崎街道脇にある。傾斜地に約5m四方の石垣によって平地ができ街道と一体化している。この場所は長崎街道を通行する大名がここで籠を降り、休憩した所と言われている。現在は木々が繁っていて見ることは出来ないが、江戸時代当時の遠望は東に多良岳・五家原岳を、北に郡岳を望め、旅の疲れを癒せる休憩所として使われていた。(詳細は、下記から参照)(掲載日:2018年3月12日
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの史跡説明板シリーズ))『籠立場跡・藩境(かごたてばあと・はんさかい)

笠山(かさやま) 所在地:大村市野田町
<概略説明> 笠山の標高は273mである。場所は大村市野田町にある福重地区最大のため池である赤似田堤の北側にある。山容自体、なだらかな陣笠の形に似た感じがする。赤似田堤の水面に写る姿含めて景色の良い所である。この山は江戸時代に作成された大村藩領絵図に描かれているが(大村)郷村記には項目別による山の記述はない。また、現在一般に使用されている地図にも標高が低いためか山の名称などの記載はない。遠景から見た美しさと逆に山の頂上部には車か車庫くらいの大きい石が沢山ある。 (詳細は下記から参照)(掲載日:2013年6月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)笠山

梶ノ尾の馬頭観音その1(かじのおのばとうかんのん その1) 所在地:大村市松原一丁目
<概略説明> この梶ノ尾の馬頭観音その1は楠(くすのき)のご神木である。このことは江戸時代、大村藩が編纂した(大村)郷村記にも記述されている。直ぐ脇に松原宿活性化協議会の史跡説明板があり、そこには「梶ノ尾の馬頭観音石像と大楠 野岳の合戦時、落武者の一人がここまで来て亡くなったが、この地に馬を埋めた。地元の方が供養の為、馬頭観音を祀り、楠を植えたのではないかという。楠の周囲は8.1mあり(以下省略)」と書いてある。(掲載日:2014年9月5日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)梶ノ尾の馬頭観音その1

梶ノ尾の馬頭観音その2(かじのおのばとうかんのん その2) 所在地:大村市松原一丁目
<概略説明> この梶ノ尾の馬頭観音その2は大村市内で最も知られた馬頭観音の一つである。それは、直ぐ脇に松原宿活性化協議会の史跡説明板があるから。本体のみの大きさは高さ50cm、横幅29cm、胴囲100cmである。制作年代は正確には不明である。土台部分の碑文には「昭和三十六年十月吉日 八幡神社ヨリ移転郷拝」 (現代語訳:昭和36(1961)年10月吉日に八幡神社より移転した)とある。特徴点として (基本形は)三面六臂(さんめんろっぴ)の造りながら光背部分が他の馬頭観音より狭い。彫像の盛り上がりが大きく、顔、手から髪の毛に至るまで精巧に細工されている。この馬頭観音の直ぐ後方に梶ノ尾の馬頭観音その1があり幹回り8.1mもある楠(くすのき)であり周囲のどこからでも目立っている。 (詳細は下記から参照)(初回掲載日:2012年5月11日、第二次掲載:2014年5月16日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)梶ノ尾の馬頭観音その2

金屋の地蔵菩薩(かなやのじぞうぼさつ) 所在地:大村市沖田町
<概略説明> この地蔵は沖田町公民館近くの金屋(金谷)にある。石の表面に三体の地蔵が彫られている。建立年代は不明ながら江戸時代に編さんされた(大村)郷村記に記述されているので、仮に新しくても郷村記の記述以前である。何故この地に地蔵があるのかも分かっていない。大村市内では通常、六地蔵が多く見られるため元々は三体の地蔵が二つ=六地蔵(六体地蔵)だったのではとの説もあるが、いずれにしても詳細な記録も伝承もないので正確には不明である。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)金屋の地蔵菩薩

金屋の二体仏(かなやのにたいぶつ) 所在地:大村市沖田町
<概略説明> 石に彫られた二体の坐像である。大村郷村記には「金屋 薬師」と記述されているが、薬師如来に肝心な薬壺がない。そのため薬師如来と表記せずに、二体仏としている。(詳細は下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)金屋の二体仏

竈権現(かまどごんげん) 所在地:大村市寿古町
<概略説明>
 御神体は釜(鍋)の欠けた物であったが現在は三宝荒神を祀っている。創立は不明だが(大村)郷村記によれば寛永19(1642)年に妙宣寺の住職がお堂を建てているので当然それ以前からあったものと思われる。現在は寿古町や皆同町の地域の方が祀られ例年10月に妙宣寺に来て頂いて例祭が執り行われている。(掲載日:2007年10月24日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)竈権現

竈権現の地蔵(かまどごんげんのじぞう) 所在地:大村市寿古町
<概略説明>
 この地蔵は寿古町にある竈権現の前にある。建立は江戸時代の「寛延三庚午(かのえうま、こうご) (1750) 年九月上旬」である。これよりも古い戦国時代建立の六地蔵は大村市内に多数現存しているが、「江戸時代建立の地蔵としては最古ではないか」とも言われている。過去から幾度となく氾濫や水害を繰り返している郡川の右岸近くにありながら建立後から(2013年現在まで)約260年間、水害に見舞われなかったとの伝承もあり、ほぼ無傷の状態である。地蔵の本体・蓮華座・土台部分含めて上下・左右のバランスが良く、大変スマートな形である。。 (掲載日:2013年11月2日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『竈権現の地蔵』、竈権現


上河原の弁財天石(かみごうらのべんざいてん) 所在地:大村市沖田町
<概略説明> 
郡川の左岸から約80mの所に上河原の集会場があり、その敷地内にある。大村郷村記にも「上河原 弁財天 」との記述がある。弁財天は一般に弁天様とも呼ばれている。形は左手に宝珠を乗せ、右手で法剣を握る姿と思われる。(詳細は下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)上河原の弁財天

上八龍の線刻石仏(かみはちりゅう の せんこくせきぶつ) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 
この石仏は元々、弥勒寺町の字(あざ)「上八龍」にあった。昭和時代末期か平成時代初期頃におこなわれた圃場整備時にいったん田んぼの土手に置かれた。2014年3月26日、福重地区活性化委員会と弥勒寺町内会の共同事業により、弥勒寺公民館東側、熊野神社境内に移設・安置された。石全体の大きさは高さ175cm、横幅312cm、重さ2トンある。この石仏の建立年代は正確には不明だが、平安末期から中世時代と推測されている。一見、如来系石仏に見えるが、納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した姿形は神仏習合像の可能性もあり、正確には不明である。(詳細は下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
上八龍の線刻石仏(CG写真)

上八龍の単体仏(かみはちりゅう の たんたいぶつ)(滑石製の平安仏) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 
この滑石製平安仏(単体仏)は所有者によると元々、弥勒寺町の字(あざ)「上八龍」周辺にあったと言う。ただし、字が違っているとの話もある。いずれにしても先祖がどこからか持ってきて、長年大事に祀ってこられたのは事実である。この石仏の造立年代は末法思想との関係で経筒の埋められた経塚の上に乗っていた単体仏と推測されるので平安時代末期と思われる。石材は滑石製である。石仏全体の高さは22.5cm、横幅は15cmである。なお、この石仏の裏面には後世の悪戯(いたずら)と思われる粗彫りもある。(詳細は下記から参照)(掲載日:2018年9月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの
上八龍の単体仏

亀石(かめいし) 所在地:大村市今富町 大神宮の境内
<概略説明> この石は、頭や首の形自体が亀にそっくり。さらに、顔に当たる部分まで、何かしら表情がある。いつから、この石がここにあるのか不明とのこと。(詳細は下記から参照)(掲載日:2007年3月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)亀石

萱瀬の軍馬慰霊像(かやぜ の ぐんば いれいぞう) 所在地:大村市田下町 氷川神社の境内
<概略説明> 
この慰霊像は大村市萱瀬地区(旧・萱瀬村)の馬が戦争で多く徴用されたが一頭も帰国することが出来ず戦地で死亡したため、それを慰霊するために立てられた。土台を除く軍馬像本体の大きさは高さ135cm 、横幅150cm、奥行き40cmである。建立年は1991(平成3)年9月29日、建立者は日本郷友連盟・萱瀬郷友会、彫刻家は竹内修氏で、鋳造会社は株式会社・高岡鋳芸社(富山県高岡市)である。土台(高さ約170cm)の上にある軍馬像は、小ぶりながら姿形が実に素晴らしく、たくましさ、さらには今にも動き出さんばかりの迫力がある。また、美術的価値からしても、かなり高いと思われる。 (詳細は下記から参照)(掲載日:2014年3月11日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)萱瀬の軍馬慰霊像


伽藍堂(がらんどう) 所在地:大村市沖田町 (郡川の堤防脇)
<概略説明> 
伽藍堂の意味は、ひとことで言えば「伽藍神(がらんしん)をまつってある堂」のこと。なぜ、その堂が、郡川の堤防近くにあるのかも含め伽藍堂自体の存在が、地元でも不明である。このことは江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも由緒などの詳細は記述されていない。現在、石垣の上に7体ほどの自然石が祀られているようである。(掲載日:2012年12月15日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)伽藍堂

がろう島(がろうじま) 所在地:現在はないが長崎空港建設工事前までは箕島周辺にあった島
<概略説明> がろう島は長崎空港建設前まで大村湾内の箕島近くに一つの島として存在していた。この島は箕島周辺にあった三つの島の中では最大の島で大村市街地から見れば箕島より手前側にあり小山みたいな形状に見えていた。(大村)郷村記によれば江戸時代には松の木も生えていたが大岩石の島として記述されていた。その岩石があったためか近代に石切り場、採石場となり陸地側の土木建築用石材として使われた。(掲載日:2013年7月7日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)がろう島


川の中の碑文石(かわのなかのひぶんせき) 所在地:大村市上諏訪町(山田の滝の滝壺から下流へ10mいった川床)
<概略説明> この碑文石の本来名称は瀧壺迹驚淵巌壁碑銘<意味は「滝壺(たきつぼ)である迹驚淵(とどろきぶち)の巌壁(がんぺき)にある碑銘=碑文」と思われる>である。建立目的は日蓮宗の守護神である七面大明神(七面天女)の安置と思われる。建立者は(本経寺の第8代住職の)日迢(にっちょう)で、建立年月日は元緑十三庚辰(かのえたつ、こうしん)年(西暦1700年)8月19日である。元の建立場所は当時「迹驚の瀧(とどろきのたき)<現在呼称:山田の滝>の滝壺(たきつぼ)の岩壁にあった。1957(昭和32)年7月25日に発生した大村大水害時に下流10mに流され現在は川床にある。この自然石の大きさは高さ約110cmプラス水面下(推定で全体160cm位か?) 、横幅約205cm 、奥行き約190cmである。この水害の力で石の三方面は割れているが不思議と碑文面は損傷が少ない。碑文全体は目視では難しいが、一部分ながら拓本では判読可能である。なお大村郷村記にはほぼ全文が記述されている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)川の中の碑文石

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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