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大村辞典
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野田古墳(のだ こふん) 所在地:大村市野田町
<概略説明>  野田古墳は1962(昭和37年)3月、多良山系から伸びた尾根づたいの標高80mの斜面(山林原野)をみかん畑にするため開墾中、偶然、発見発掘された。古墳の主体は両袖式の横穴式石室と言われている。大きさは奥ゆき及び幅とも約2mあった。この石室の上に天井板ような平たい石がかぶさり、その上の盛り土が施され墳丘のようになっていたと思われたが、その大きさまでは当時確認できなかった。また、この開墾時、下側にも2其の古墳があったがブルドーザーで破壊した後だったと言う。さらに、それから約20年後、高速道路・長崎自動車道の工事があった。1990(平成2)年1月26日大村〜武雄北方間の開通前の数年前に、さらに新たに2基ほどの古墳が出土したが、壊された。これにより、野田古墳は合計5基の古墳群だったと思われる。この当時まで先に発掘された野田古墳は現存していたが、移設も保存処置もされなかったため高速道路工事とともに、この1基も壊された、野田古墳は合計5基の出土が確認されたが、現在は何もない。高速道路に架かる高野橋近くにある農道開通記念碑は野田古墳の天井板(平たい石)で、これは今でも残っている。(掲載日:2012年7月9日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田古墳


野田新地節(のだ しんちぶし) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
 この踊りの歴史は明治時代の後期に諫早の小野島から伝授されたとの説がある。また、『福重青年団史』に「昭和4年から5年頃、北高木郡深海に当時の野田郷青年団が習いに行き、この方々に野田郷まで来てもらい鷲塚家で二昼夜稽古をした」とも記述されている。いずれにしても諫早干拓当時の終末の様子の踊りや歌を当時の野田郷(町)の方々が習われ、福重地区の敬老会、野田での祝宴などの余興として、歌い踊られきた。この踊りの見どころは潟を入れる者と、それを天びん棒で荷う(になう)者、男女が一組となり歌と囃子(はやし)に合わせて、腰を振りながら軽快な動きで面白く踊る所作(しょさ)である。(掲載日:2017年8月21日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田新地節

野田の鍬踊(のだ の くわおどり) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
 この踊りの歴史は大正時代(1912〜1926年)の中期頃、西彼杵郡中浦(現在の西海町)の住人で越田善吉 氏が東北方面へ旅行された時、人と鍬(くわ)とが一体となり喜び、豊作を祝っての踊りに感動され、自分も習い持ち帰られた。その後、大正末期頃、西大村の池田坂口に転勤され当時の野田郷(町)の田川家(現在の越田家)と親戚関係だったので、当時の青年団などに伝授(でんじゅ)されたものである。 その後、郷内(町内)のお祝い、福重地区の敬老会や夏祭りの余興などに踊ったとの伝承もある。野良衣姿の男女が鍬を片手におどる豊年万作踊りである。その調子は明るく軽快な踊りで農民の心意気を面白く表現している。道踊りと本踊りがある。(掲載日:2017年8月19日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田の鍬踊


野田の六地蔵(のだ の ろくじぞう) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
  六地蔵は、ほかに六体地蔵とも六面地蔵とも呼称されているが、(大村)郷村記を参照して六地蔵で呼称を統一している。野田の六地蔵は全体の高さは、約90センチで、一つの石のまわりに六体の地蔵がある。詳細は下記から参照)(掲載日:2006年8月27日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田の六地蔵
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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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