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大村辞典
はじめに
もくじ
大村辞典 ”し”の項目

”し”の項目
城の尾城(じょうのおじょう) 所在地:大村市東大村町<字「鶏首(けくび)」>
<概略説明>城跡全体(建物などはないが)主郭、副郭、曲輪、登城路、竪堀などがあった跡が、ほぼ当時のまま残っている。さらに飛礫(つぶて)用の石も現存している。これらからして戦国時代の戦闘状態そのままと言っても過言ではない。大村市内に他に類例のない城形式である。保存状態も良く、長崎県内と大村市内では極めて特徴のある城跡と言える。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『城の尾城

城山城(じょうやまじょう) 所在地:大村市今村町
<概略説明>城山城の遺構として主郭、副郭、竪堀、帯曲輪、切岸などが長年の風雨による一部の崩れを除けば戦国時代当時と大きくは変わらずに現存している。ただし、石垣や階段などはない。当時の遺構をとどめた城としては大村市内で城の尾城とともに、けっこう貴重ともいえる。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『城山城

鹿大明神(しかだいみょうじん) 所在地:大村市沖田町(下沖田集会所の中)
<概略説明> この鹿大明神は下沖田集会所の中で祀られている。由緒については江戸時代の(大村)郷村記や地元伝承などに様々ある。その中には「昔、鹿大明神が海から来る夢を見た人がいた。海岸に行ってみたら沖の方から鹿の角が二本入ったそうけ(竹のかご)が流れて来た。それを持ち帰って祀ったのが始まり」との説もある。 そのほかにも、昔「郡川で煙管(キセル)入れみたいな物に入った小さな仏様が拾われた」と言う説がある。それが「鹿大明神」と書かれた石祠に祀ってある仏様ではないかとも言われている。ご神体が鹿なので、昔、沖田では犬を飼わないことになっていた。この社は現在、下沖田地域の人たちによって祀られている。 
(掲載日:2017年5月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)(福重の名所旧跡と地形)鹿大明神』、『(史跡説明板)鹿大明神

鹿島(しかのしま) 所在地:大村市松原2丁目
<概略説明> 鹿島は大村市内の島
では、最北部に位置している。島の周囲は250m弱くらいの、そう大きな島ではないが、近景も遠望も良くて、風光明媚な島である。江戸時代に作成された大村藩領絵図には、「久津嶋」とも書いてある。近代になり埋め立てにより島へは陸続きで歩いて渡れる。島内には弁財天(弁天様がある。 (掲載日:2011年9月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『鹿島

重井田町の天狗伝説(しげいだまち の てんぐでんせつ) 所在地:大村市重井田町
<概略説明> この天狗伝説と関係しているのは字(あざ)の「天狗通し(てんぐとおし)」と「赤岩(あかいわ=天狗が怪我して血で赤く染まった岩などから由来)」、さらに大きい岩(石)である「天狗の飛び立ち石」、「赤岩(あかいわ)」、(天狗が休憩した)「天狗の足跡石(てんぐのあしあといし)」、(天狗が最後に乗った)「天狗岩(てんぐいわ、現在は宗教施設)の2つの地名と4か所の岩である。この伝承話は二つの地名の由来になるくらい古いので「長崎県内で最古の民話」ではないかともいわれている。天狗伝説の起こる背景として同町内にある郡岳(こおりだけ、826m)は奈良時代に創建された太郎岳大権現があり、その修行場と言われてきた御手水の滝(通称:裏見の滝)があり、さらに同町は森林に囲まれているためであろう。 
(掲載日:2016年11月16日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)重井田町の天狗伝説』 、 『創作童話 てんぐになった福ちゃん 、 『英語版?てんぐになった福ちゃん』 、 『太郎岳大権現』 、 『郡岳(こおりだけ、826m)』  、 『御手水の滝(通称:裏見の滝)

重井田浮立(しげいだ ふりゅう) 所在地:大村市重井田町
<概略説明> この浮立は口伝によると明治の頃、諫早出身の指方金四郎氏によって大渡野浮立が伝えられた。その後、掛打ち踊りは中岳浮立を学んだ。浮立で用いる鉦(かね)の刻印名には「大正捨三年」(1924年)、大太鼓には「明治30年」(1897年)の銘がある。現存する最古の重井田浮立写真と思われる福重小学校・重井田分教場(分校)の校舎完成祝いで踊られた1928(昭和4)年春頃のものがある。この浮立はかつて福重地区敬老会を始め大村市内での祝祭行事などで興じられてきた。浮立の形態は掛打ち、綾竹、大太鼓(月ノ輪)からなる複合の浮立である。大太鼓打ちには独特の技を持つ浮立である。浮立の順番は幟(旗)−ササラ−掛打ち−綾竹−大太鼓(月ノ輪)−モラシ−鉦の順番に道踊りで入場し演技された。構成は道行き−庭入り−場打ちから成っている。(掲載:2017年8月17日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)重井田浮立

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清水の線刻石仏(しみずのせんこくせきぶつ) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 清水の線刻石仏は、その名称通り弥勒寺町の字(あざ)「清水」にある。そこは弥勒寺町公民館から東側へ約200m行った雑木林(竹林)の中にある高さ2m90cm、横幅16m70cmの岩壁である。その岩壁に高さ74cm、横幅56cmの大きさで仏(線刻模様)が彫ってある。年代は諸説あるが中世時代と推測される。線刻模様の主な特徴として納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した姿形で、光背(こうはい)と蓮華座(れんげざ)の模様線はない。この姿形は福重地区にある合計13体の線刻石仏の模様と基本は同じである。推測ではあるが、この線刻模様はいずれも神仏習合像か神像を表したものと言われている。
(掲載日:2015年11月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)清水の線刻石仏

下八龍の線刻石仏(しもはちりゅうのせんこくいしぼとけ) 所在地:大村市弥勒寺町、シュシュ駐車場脇
<概略説明> この下八龍の線刻石仏(元あった場所が字「下八龍」)は、弥勒寺町、シュシュの駐車場の横にある。最初の場所は、この地点ではなく違う場所だったが、シュシュのオープン時に、ここに移設された。石全体の大きさは、高さ約130cm、幅約220cm。 仏様の高さは約63cm、幅は約52cmである。 
(掲載日:2008年8月1日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「仏の里福重ページ」の『下八龍の線刻石仏

正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(しょうれんじあと) 所在地:大村市寿古町(民家周辺)
<概略説明> この正蓮寺(聖蓮寺)の創建は不明である。江戸時代の大村郷村記によれば寺院名称は「聖蓮寺」となっている。(現在は「正蓮寺」と呼ばれている)また場所は「長松」で、寺領は四石九斗九桝四合と書いてある。基礎的な古記録や伝承も少ないため詳細が分かりにくい仏教寺院跡である。 (掲載日:2016年12月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)正蓮寺跡(聖蓮寺跡)

銃後の郷土(じゅうごのきょうど)=1941年(昭和16年)作成の福重村写真集
<概略説明> 1941(昭和16)年11月頃に当時の福重村で写真集が作成された。この写真の目的は戦地にいる同村出身の兵隊へ送る慰問袋に入れるためだった。大きさはA5版(横22cm、縦15cm)で厚さ5mm。ページ数は表紙含めて全体で48ページである。この中には例えば村議会、村役場、警防団(消防団)、福重国民学校(福重小学校)を始め各郷(町)の軍人家族、国防婦人会、青年団の集合写真がある。さらには当時の風景や歳時記などの写真も収められている。現在において、これだけの枚数とまとまった状態で戦前の状況を伝えている写真集があること自体、珍しく貴重との評価もある。福重地区では数冊が現存していると言われているが1冊を除き確認できていない。戦後しばらくしてから復刻版が作成されたと言われているが残存数や詳細は不明である。なおデジタル複写版として上野が保存し全写真と、その説明文を下記HPに掲載している。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『銃後の郷土もくじ』、『銃後の郷土はじめに

--準備中--

十二社権現跡(じゅうにしゃごんげんあと) 所在地:大村市今富町、字「橋口」
<概略説明> この十二社権現は江戸時代の大村郷村記に記述され、大村藩領絵図には文字名称で図示されている。その図示された場所は字(あざ)「橋口」にある民家もしくはその東側周辺と思われる。創建は不明である。大村郷村記によれば昔から権現跡と言われてきた所に正保年間(1644年〜1648年)に再興(再建)された。 神殿は奥行4尺(約1.2m)に、横幅5尺(約1.5m)の瓦屋根(かわらやね)、拝殿は2間(約3.6m)四方、石の鳥居が2基あった。境内の広さは奥行7間(約12.7m)に横幅19間(約34.4m)であった。この十二社権現の境内で1617年(元和3)、キリシタン宣教師2名が殺害(大村初の殉教)された。これを一般には「帯取殉教」と呼ばれているが字名も違うし現在、大神宮の参道入口近くにある「帯取殉教地跡(記念碑)」は実際の十二社権現跡と350m近くも離れた全く間違い場所に建てられている。  (掲載日:2016年12月29日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)十二社権現跡』<(本当の)「帯取殉教地跡」>

白鳥城(しらとりじょう) 所在地:大村市岩松町
<概略説明>白鳥城の場所は大村市立鈴田小学校近くを流れる鈴田川の北西側にある丘陵(尾根の先端部)にあった。現在、その場所は住宅団地及び高速道路(長崎自動車道)の高架下側あるいは高い橋脚の間付近である。白鳥城の遺構について江戸時代の(大村)郷村記には(現代語訳で)「周囲7町程(約764m)、高さ30間程(約55m)、上の広さは1反1畝程(約1,091u)、背後に横3間(約5.5m)・深さ2間程(約3.6m)の堀切り3カ所がある」と記述されている。しかし、現在は住宅地などになっているため何もない。この城の下側付近は東西とも断崖絶壁で、さらに東側に鈴田川の本流、西側には鈴田川の支流になる白鳥川がある。このような自然の地形により難攻不落の城だったと思われる。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『白鳥城

新城(しんじょう) 所在地:大村市杭出津1丁目
<概略説明>新城の場所は現在のJAながさき県央・大村中央支店周辺と言われている。江戸時代の古記録(大村)郷村記には杭出津砦として記述されていて、それには「大手は巽(北東)の方、搦手は戌(北西)の方 に向き、郭内300坪(約990平方メートル)、天正3年(1575)に大村純忠が構えた」とある。当初、海側からの敵襲に備えて築城を開始したが、途中で適さないとの判断から建設を中止した。その後、その場所には家臣が代々住んだようだ。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)大村の城シリーズ」の『新城


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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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