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大村辞典
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大村辞典 ふ”の項目

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福重小学校(ふくしげしょうがっこう)   所在地:大村市福重町230番地
<概略説明> 福重小学校は1872(明治5)年8月に開校した。大村市内で公立の小学校としては最も早く開校し長崎県内でも最も歴史のある小学校の一校である。場所は当時の寿古郷(現・寿古町)「株田」(江戸時代は庄屋の所)で、最初の児童数は8名であった。(学校名称については様々で多くの変遷があるが省略)1891(明治24)年9月、郡川の水害により学校が流された。1893(明治26)年9月、皆同郷(現・皆同町)「城ノ前」(現在の福重地区住民センターの前)に校舎を新築し移転した。1944(昭和19)年11月21日、アメリカ軍の空襲により校舎が一部損壊した。1945(昭和20)年4月、学校敷地が福重飛行場の用地となり現在地の矢上郷(現・福重町)230番地に移転した。同年11月6日に本館校舎が移築された。(その後、校舎・体育館・プール・運動場・相撲場などの新築、整備や拡張など多くあったが省略)1966(昭和41)年10月3日に校歌が制定された。現在の児童数は年度によって増減はあるが300人前後である。   (掲載日:2015年9月9日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重小学校紹介もくじ(ページ)、「福重小学校の概要」、「福重小学校の歴史」、「皆同町にある福重小学校の本校跡」、福重小学校・創立百周年記念碑、「福重小学校・立福寺分教場跡」、「福重小学校・重井田分教場跡」、「福重小学校にある白馬さま」、「福重小学校の二宮金次郎

福重小学校・創立百周年記念碑(ふくしげしょうがっこう そうりつひゃくしゅうねん きねんひ)   所在地:大村市福重町230番地
<概略説明> 福重小学校は1872(明治5)年8月に開校した。その開校から100年経った昭和48(1973)年2月19日に現在地の福重小学校・相撲場の東側に創立百周年の記念碑が建立された。記念碑本体は高さ1m72cm、幅88cm、周囲2m60cmである。 碑文は正面の太文字で「創立百周年記念碑」、その文字の両脇には「大村市立福重小学校」と「昭和四十八年二月十九日 建立」と彫ってある。なお同じ建立年月日に他の4基(寿古の本校跡、皆同の本校跡、立福寺分教場跡、重井田分校跡)の記念碑も同時にたてられた。  (掲載日:2016年3月10日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「福重小学校・創立百周年記念碑」、『福重小学校紹介もくじ(ページ)、「福重小学校の概要」、「福重小学校の歴史」、、「皆同町にある福重小学校の本校跡」、「福重小学校・立福寺分教場跡」、「福重小学校・重井田分教場跡」、「福重小学校にある白馬さま」、「福重小学校の二宮金次郎

福重小学校・重井田分教場跡(ふくしげしょうがっこう しげいだ ぶんきょうじょうあと)   所在地:重井田町
<概略説明>  昔は重井田郷(町)から当時の皆同郷(町)にあった福重小学校本校へ通学するのは道路事情から、なかなか困難だった。そのため道路が整備されるまでと言う限定で分教場が1928(昭和4)年から1937(昭和12)年の約8年間おかれた。分教場は平屋造りで小さな広場、庭や池などもあった。 この分教場完成祝いに重井田浮立を踊った記念写真が残っているが、喜びが大きかったのか重井田の方が 大勢写っている。なお、分教場の先生は一人で荒瀬郷(町)からの出勤だった。 重井田分教場跡地記念碑は1973(昭和48)年、福重小学校創立百周年に建立されたものである。また記念碑の横には重井田分教場跡の史跡説明板が2015年3月1日に設置されている。  (掲載日:2015年4月16日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「福重の名所旧跡や地形」の『福重小学校・重井田分教場跡』、「大村の史跡説明板・案内板シリーズ」の『福重小学校・重井田分教場跡

福重小学校にある白馬様(ふくしげしょうがっこうにある しらうまさま)   所在地:福重町、福重小学校
<概略説明>  白馬様の建立年は石祠の裏側碑文によれば1941(昭和16)年1月である。場所について、当初は皆同郷(町)に福重小学校があった頃に建立された。1945年に学校の移転があって、しばらくした1956(昭和31)年に矢上郷(現在の福重町)に引っ越した。建立者名についての記録や碑文はないが、戦前の学校状況から推測すると、旧・福重村か福重小学校と思われる。石祠本体の大きさは高さ約68cm 、横幅約40cm 、周囲約160cmである。建立碑文によれば(現代語訳で)「学校敷地内にあった無縁仏を教職員・児童の守護神(守り神様)とした」とある。建立後から現在まで、長年毎年1月末頃にPTAなどによって「児童の守り神様」として祭られてきた。(掲載日:2014年6月19日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの『福重小学校にある白馬さま

福重小学校の二宮金次郎像(ふくしげしょうがっこう の にのみや きんじろう ぞう)   所在地:福重町、福重小学校
<概略説明>  本像の建立年は1944(昭和19)年9月で、寄贈者(建立者)は柴田三郎氏である。本体は陶器製の立像で高さ130cm  横幅45cm と、小ぶりの陶像ながら姿形がスマートである。 また、陶器製とは思えない位、像の細部まで良く出来ていて完成度が高い。ただし、残念ながら左手上部(本の片側ページ部分)が、何らかの理由で欠けているのと、左足前部分が表面剥離の状態となっている。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重小学校の二宮金次郎像

福重小学校・プール竣工記念碑(ふくしげしょうがっこう プール しゅんこう きねんひ)   所在地:福重町、福重小学校
<概略説明>  
この竣工記念碑の建立年月日は1969(昭和44)年4月19日(注:この日は竣工式開催の日)である。記念碑本体の大きさは高さ60cm、横幅75.5cm、奥行25cm、周囲2m1cmである。本体正面の太文字には「プール竣工記念」と彫ってある。あと、その下部や土台部分の東西南北4面には寄付者名、建設費用、(建設に至る)経過、建設委員名などの碑文がある。このプールは1961(昭和36)年7月、児童の溺死事故が発生しため育友会を中心としてプール建設を協議し、福重地区遺族会や当時の植林管理組合などからの多額の寄付金をもとに、さらに大村市からの建設費用負担もあったので出来たものである。なお参考までにプールの敷地全体は目測ながら南北約30m、東西約35m、本プールは横幅約25m、 縦約12m(長さ25mの6コース)、補助プールは横幅約7.5m、 縦約3.5mである。(掲載日:2017年10月17日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの
福重小学校・プール竣工記念碑


--準備中--

福重小学校・立福寺分教場跡(ふくしげしょうがっこう りふくじ ぶんきょうじょうあと)   所在地:立福寺町
<概略説明>  昔は重井田郷(町)や立福寺郷(町)の高台から当時の寿古郷(町)にあった福重小学校本校へ通学するのは遠距離と道路事情から、なかなか困難だった。そのため明治12(1879)年8月より立福寺分教場(分校)が置かれた。ただし、この分教場跡にある記念碑の碑文によると、「明治十二年八月より しばらくで廃止する」となっているので、後で出来た重井田分教場の開校期間(=昭和初期に約8年間)に比べれば、かなり短期間だったと推測される。場所は当時の立福寺郷(現在の立福寺町)だが、生徒の多くはここよりもさらに山間地になる重井田郷(町)と立福寺郷(町)の児童が多かったのではないかと想像される。なお現地には1973(昭和48)年、福重小学校創立百周年に建立された立福寺分教場跡地記念碑が立っている。さらに詳細は不明だが記念碑近くの廃屋付近が分教場の校舎跡と(運動用の)広場跡と推測される。  (掲載日:2016年3月13日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村の史跡説明板・案内板シリーズ」の『福重小学校・立福寺分教場跡

福重青年団史(ふくしげせいねんだんし)   所在地:旧・福重村、(現)福重地区
<概略説明>  福重青年団史は冊子名称通り長崎県大村市福重地区(旧・福重村も含む)に、かつて存在した福重青年団の歴史(主に資料や随想など)を記述したものである。福重青年団の創立経過(概要)は、この団史によると主に次の<>内通りである。<明治43(1910)年、村の先覚者たちが福重農事研究会を組織して研究した。小学校卒より35才までの会員、200名程度で農事研究、珠算、体育(角力=相撲のこと)などの錬磨に努めた。青年会と名称を改めた。大正6(1917)年頃に、その筋の達しによって、従来の青年会の機構を改め、自治制となって、18才から25才までを団員とした。大正7(1918)年4月に福重青年団と改称された> そして、大正9(1919)年、当時の文部・内務両大臣から、長崎県下に、ただ一つの優良青年団として表彰されたことを契機に敬老会が開催された。この敬老会運動会が青年団での年間で最大の行事だったため、このことを中心に団史には書いてある。それ以外の内容として福重村(地区)や青年団の歴史、歴代青年団長の一覧表、郷土の伝統芸能(七つの踊りの紹介) などが記述されている。(掲載日:2017年9月26日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページのの『福重青年団史


--準備中--

福重梨(ふくしげなし)   生産地:弥勒寺町、福重町、皆同町、立福寺町など
<概略説明> 福重
梨の主な品種は幸水(こうすい) 、豊水(ほうすい)、 秋月(あきづき) 、二十世紀(にじゅうせいき) 、新高(にいたか)、 新興(しんこう) などである。収穫や販売時期は各品種によって大きく異なるし、天候によっても左右されるが全体通して8月初旬から10月下旬まである。出荷方法は産地直売方式が全体の90%以上である。味について、福重梨の代表格(全体の約70%を占めている)の豊水を例にとると、果実がずっしりと重く柔らかくてジューシーで一つ食べたらまた食べたくなるほどである。福重梨の歴史は戦前からで当時、米ばかりの生産奨励時代に弥勒寺郷(町)、大庭氏の一戸の農家からスタートしたといわれている。その後、弥勒寺郷(町)を中心に福重地区内の各町内でも広まり、2013年9月現在で17戸の梨園で様々な品種が生産されている。福重梨は「フルーツの里・福重」の代表品種でもある。(掲載日:2017年8月8日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重梨(概要紹介)

福重のあゆみ(大人版、中学生版)
<概略説明> 冊子:「福重のあゆみ」は、その名の通り長崎県大村市福重地区(旧・福重村)の通史(全時代にわたっての歴史紹介文書)である。通称で「大人版、中学生版」と、正式名称で「小学生版」の2種類(ただし版ごとに詳細に分けると現在4種類)がある。どの冊子とも元原稿の執筆は増元義雄氏である。サイズは全てA4サイズ(全体で55〜80ページ位)である。「福重のあゆみ(大人版)」の初版は2003年3月1日発行された。翌年の2004年3月1日に「福重のあゆみ・修正版」も発行され、この冊子は本来「中学生」用に作成されたので、当初は「福重のあゆみ・中学生版」とも呼ばれていた。しかし、2003年発行冊子に追加、修正が加えられながら逆にページ数が少なくなったので分かりやすく一般に利用されているので、いつのまにか通称ながら「福重のあゆみ(大人版、中学生版)」と呼ばれるようになった。(掲載日:2015年10月29日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重のあゆみ(大人版、中学生版)

福重のあゆみ(小学生版)
<概略説明> 冊子:「福重のあゆみ(小学生版)」の初版は2004年3月1日、第2版は2010年3月、第3版は2015年12月1日に発行された。いずれも元原稿の執筆は増元義雄氏である。サイズは全てA4サイズ(全体で75〜80ページ位)である。内容は「福重のあゆみ(大人版、中学生版)」と同じく長崎県大村市福重地区(旧・福重村)の通史(全時代にわたっての歴史紹介文書)であるが小学生向きに漢字を大幅に減らして、ひらがなに直し文字を大きくしたものである。冊子名の通り、主に福重小学校で読まれ例えば地域(福重地区)を知る総合学習、史跡巡り、郷土史クラブや遠足コースなどの下調べなどに児童や教職員の方で活用されている。なお小学生用の通史の郷土史冊子があり、さらには増版(増刷)が継続されているのは珍しいことでもある。(掲載日:2015年11月1日、第2次掲載:2015年12月24日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの福重のあゆみ(小学生版)

福重のブドウ(ふくしげのぶどう)   生産地:今富町、弥勒寺町、立福寺町など
<概略説明> 福重のブドウの主な品種は巨峰(きょほう、収穫量の約90%)、藤稔(ふじみのり)、シャインマスカットなどである。収穫や販売時期は各品種によって大きく異なるし、天候によっても左右されるが全体通して8月初旬から9月上旬まである。出荷方法は産地直売方式がほとんどである。味について、糖度が高くお客様(消費者)に喜ばれて購入者のリピーターが多い。栽培の歴史について、1961(昭和36)年頃から今富町・冷泉寺集落の農家5戸位から始まったと言われている。その当時の品種は「キャンベル」だったが、その後、同集落で巨峰(きょほう)の栽培をされ徐々に、この品種に変わった。そして、ブドウの栽培は今富町だけでなく弥勒寺町や立福寺町に広まった。福重のブドウは福重梨とともに「フルーツの里・福重」の代表品種でもある。(掲載日:2017年8月13日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重のブドウ

福重地区敬老会(ふくしげちく けいろう かい)   所在地:大村市福重地区
<概略説明>福重地区敬老会(大村市との合併前までは福重村敬老会)は1919(大正8)年に初回が開催された。この開催理由は当時の福重青年団が内務・文部両大臣から長崎県下ただ一つ優良青年団として表彰を受けたのがきっかけとなった。これを機会に「この美しい福重村を築いて来られた先輩方に感謝の念を表すとともに日頃のご労苦を慰安しよう」ということで敬老会が始められた。途中、戦争とか台風などにより数回の中止もあったが、2015年9月13日の開催で第97回である
。主催団体は初回から2000年頃までは同じだったが青年団が少なくなったため、福重地区町内会長会や消防団などに変わった。内容について、福重小学校・運動場でおこなわれた頃、朝の時間帯は運動会、昼からは郷土芸能や余興などの披露であった。現在は弥勒寺町のシュシュ・レストランで表彰、郷土芸能、各種の踊り、カラオケ、各種余興など行われている。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの
福重地区敬老会の歴史(概略)

福重地区の精霊流し(ふくしげちく の しょうろうながし)  所在地:大村市寿古町(郡川右岸の河川敷)
<概略説明> 福重地区の精霊流しは現在、寿古町、郡川右岸の河川敷で開催されているが、この場所で何年から始まったのか正確には不明である。しかし、(2017年現在でも)既に数十年は経っているかと思われる。主幹は福重地区町内会長会、消防団第11分団、関係諸団体などである。参加数は年によって異なるが450〜650名である。主な内容は福重地区内10町内(一部の町内を除き)から各家、各親戚、各町内で造られた精霊舟や供物などが運び込まれる。その間、道中で各宗派別で若干違うが爆竹、鐘(かね)や団扇太鼓(うちわだいこ)などを鳴らしたり、経典を唱えたりしながら歩く。また、福重地区は広い地域なので自家用車や軽トラックなどに載せて運び込む場合も多い。例年20時前頃より約20分間、妙宣寺の僧侶による読経があり、その時の参加者も各家族、各自で仏壇に線香をあげたり、手を合わせ唱える。その終了後、再度、仏壇に手を合わせたりしながら三々五々、解散となる。(掲載日:2017年9月8日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村歳時記シリーズ」の『福重地区の精霊流し

福重飛行場跡(ふくしげひこうじょうあと)   所在地:今富町、皆同町(現在、飛行場跡に一直線の道路あり)
<概略説明> 福重飛行場は1944年10月の大村大空襲などにより海軍航空隊の多くが使えなくなり翌年の1945年春頃までに突貫工事で造られた飛行場である。戦前も少し使用され、戦後もしばらくの間、小型機などが離発着した。福重飛行場について、ある資料には「大村空のおかれていた大村飛行場よりあとにつくられ、草薙部隊の名で知られた第352空の零戦、雷電、月光がここを基地として長崎、佐世保、大村地区の防空にあたったほか、第254、256、652空なども使用したことがあり、第342空の月光隊が進出してきたこともある。滑走路は長さ950m×30m」と書いてある。しかし、当時、実際の飛行場の長さは違っている。また、まだ舗装はされていなかった(農地部分の整地は終了
)が、佐奈河内川の東側にも延長計画があり、その整地部分も含めれば飛行場(計画上)の長さは1500m近くになっていた。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「写真が語る福重の歴史や人」の『福重飛行場)』

福重橋記念碑(ふくしげばし きねんひ)   所在地:沖田町(郡川の堤防道路脇)
<概略説明> 長崎街道は郡川では飛び石であった。明治19(1986)年、それまで飛び石だった地点に新たに木造橋が架橋された。現在の国道34号線は、その当時長崎県道だったため県と(当時の)福重村と合同で福重橋も記念碑も造られたものと思われる。碑文裏面の氏名部分には、長崎県、福重村、設計者や大工などの関係者名が彫ってある。記念碑(碑文石)本体の大きさは、高さ約185cm  横幅約90cm  厚さ(最大部分)約34cm、胴囲約237cmである。土台の石垣部分の高さも含めれば250cm近くあるので高く見える。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村の石碑や碑文」の『福重橋(木橋)の記念碑と水切り石

福重町の舟つなぎ石(ふくしげまちのふなつなぎいし)   所在地:福重町(現在は市道脇にあり)
<概略説明> この舟つなぎ石の元あった場所は現在地よりも南側(写真奥側)方向へ50mくらい先の石走川近くの田んぼ周辺にあった。田畑をトラクターで耕せるように圃場整備(基盤整備)した時に現在地へ移設された。大小3個の石の内、市道側から見て中央奥側の石(高さ80cm、横幅82cm、周囲210cm)が一番、舟つなぎ石らしく見えるが詳細は不明である。圃場整備がおこなわれる以前、この周辺に舟つなぎ石は沢山あったが現在は皆同町にあるものを入れて2ヶ所のみである。この舟つなぎ石があるということは石走川を中心とした周辺の平地一帯は大昔この付近まで海が広がっていたことを示すものである。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『
福重町の舟つなぎ石

福重村の招魂碑(ふくしげむら の しょうこんひ)   所在地:今富町、大神宮(境内の東側)
<概略説明> この福重村の招魂碑は日清・日露戦争や、それ以降の戦争も含め福重村(現在・大村市福重地区)出身者で戦死された方の慰霊の碑である。場所は大村市今富町・大神宮境内東側の築山みたいな所にある。建立年月日は昭和2年(1927) 11月7日で、建立者は帝国在郷軍人会福重村分会である。記念碑(本体)の高さは約185cm 、横幅は約80cmであるが、土台や階段下の境内地面から見上げると高さ6m位ある。招魂碑の書(揮ごう)は大村出身で陸軍大将であった福田雅太郎(ふくだ まさたろう)氏によるものである。(招魂碑文字の左側列に氏名や印章なども彫ってある) 招魂碑本体の自然石は隣町の立福寺郷(町)から(人力で)運ばれてきたとの伝承がある。招魂碑前では3年に1回、福重地区の戦没者慰霊祭が長年執り行われている。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの(福重村の)招魂碑』、『(招魂碑前での2015年6月14日)福重地区の戦没者慰霊祭

不動寺跡と不動権現(ふどうじあと と ふどうごんげん)   所在地:今富町(帯取)
<概略説明>  不動寺の創建は不明であるが、平安時代後期の久寿(きゅうじゅ)2年(1155)には既に寺名が出ている。宗派は真言宗(しんこんしゅう)で本尊は不動明王の大仏であった。本坊のほかに七つの脇坊があったといわれているが、その場所は分かっていなくて帯取周辺だろうと推測されている。不動権現は帯取・地堂の人が氏神として祀っている。
<関連詳細ページ>・福重ホームページの「名所旧跡と地形」の『不動寺跡と不動権現

不動明王(ふどうみょうおう)   所在地:弥勒寺町公民館の敷地内(市道の脇)
<概略説明> 不動明王の描かれている石は、安山岩で台の上168cmくらいの自然石である。。制作推定は、「鎌倉中期から前期」と言われている。『九州の石塔 上巻』(著者:多田隈豊秋 氏 出版者:西日本文化協会 1975年8月出版)の本に不動明王の記述=「これ程の名碑が、これまで未紹介のまま放置されていたのは寧ろ不思議である。諌早市西ノ郷梵字大旦二尊碑と共に長崎県所在碑塔の双壁といってもいいだらう。」と記述されてあるほど素晴らしい名石碑である。
(掲載日:2007年12月29日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『不動明王もしくは「仏の里 福重」の『不動明王

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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