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大村辞典
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大村辞典 お”の項目

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大村権七郎の墓碑(おおむら ごんしちろう の ぼひ) 所在地:大村市福重町(妙宣寺・位牌堂東側の丘)
<概略説明> 大村権七郎は(大村)郷村記によれば大村藩第四代藩主の大村純長(おおむら すみなが)と妾(めかけ=結婚していない愛人)の間に生まれた子である。父の大村純長は甲斐国徳美藩(現・山梨県)の伊丹家(純長は幕府勘定奉行・伊丹勝長の四男)から養子で大村家に来て、その後、郡崩れの事件が発生した時の大村藩第四代藩主である。そのため大村純長は藩主の中では有名な人である。大村権七郎の事績は古記録などに詳細な記述はないようだ。大村家関係は菩提寺である本経寺の墓地に埋葬されている例が多い。しかし、この大村権七郎の墓碑が(当時の)福重村矢上郷の妙宣寺境内にあるのは菩提(ぼだい=死後の冥福のこと)を弔う(とむらう)ため、この地に葬った(ほうむった)と言う.。墓碑全体の高さは250cmで、墓碑本体の高さは109cm、横幅は38cm、胴囲は127cmである。(掲載日:2018年7月22日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ(「大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など」の)大村権七郎の墓碑

大村の経筒(おおむら の きょうづつ) 所在地:大村市(弥勒寺町、草場町、大村市立史料館)
<概略説明> 広辞苑には経筒について「経典を入れて経塚に埋めるために用いる筒」と解説されている。その経筒が大村市内には「弥勒寺の経筒」「草場の経筒その1」「草場の経筒その2」「御手水の滝の経筒」「箕島の経筒」の4個が現存している。「経ヶ岳の経筒」は江戸時代に山頂で発見されたが既に壊れていた。経筒が造られたのは平安時代末期に流行した末法思想の頃から鎌倉時代初期が多いともいわれている。末法思想と、それに基づいて経筒、経塚、単体仏などが造られたのは一説によると「永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えた。そのため、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めた」と言われている。また、その経塚の上には信仰と目印のために単体仏など(大村では「滑石製の平安仏」が多い)が安置された。なお経筒は中に入っていた経典とともに、その当時のことを知る手掛かりになるため「日本最古のタイムカプセル」と呼ぶ人もいる。(掲載日:2018年9月13日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ)大村の経筒

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小川内の馬頭観音(おがわち の ばとうかんのん) 所在地:大村市小川内町
<概略説明> 小川内町を南北に通る市道の横(東側)にある。建立年月日と建立者は土台石の碑文によると大正7(1918)年旧3月19日に小川内(郷)で建設(建立)している。本像の大きさは高さ56cm、横幅24cm、胴囲68cmである。像の 基本形は三面六臂(さんめんろっぴ)の立像で、上下左右の均整がとれたものである。保存状態も良い。
(掲載日:2015年9月19日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの小川内の馬頭観音

沖田踊(おきた おどり) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 沖田踊は寿古踊、黒丸踊ととも大村の郡三踊り
(こおり さん おどり)と呼ばれ、いずれも2014年3月10日、重要無形民俗文化財(国指定)となっている。円陣を作って,太刀とナギナタが向い合って踊る形は,県内はもちろん九州でも見かけない踊りといわれている。踊り起源は諸説あるが500年以上にわたって地元で継承されてきた。現在でも例えば大村の花祭り、大村の秋祭りなど、3年ごとに踊りが会場で披露されている。(掲載日:2018年7月12日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『沖田踊』、『沖田踊の踊り庭跡』、『
大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について』、『郡三踊りは”神事芸能踊り”

沖田踊の踊り庭跡(おきたおどり の おどりにわ あと、大村弁:おどんにわ 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> この踊り庭跡は古記録類は記述がないが、長年地元で「おどんにわ」と言い伝えられてきた。その場所は沖田町の沖田氏宅の庭(敷地)である。この場所は下沖田と桑原地域の中間部に当たり、踊りの練習(稽古)するために集合しやすかった所とも想像される。この庭がいつの年代から使われたのか正確には不明ながら、地域伝承などを参考にすれば江戸時代から近代にかけてと推測される。戦前もしくは戦後に沖田公民館が建設された以降は同所で練習されている。(掲載日:2018年2月26日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『沖田踊の踊り庭跡


沖田条理遺構(おきたじょうりいこう) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 大村市沖田町、郡川左岸一帯の田んぼ(現在、一部畑も含む)のことを言う。 ここで見られる碁盤の目のような区割りは、近代にトラクターなどが入るために圃場整備(基盤整備)されたものではなく、約1300年前から延々と続く条理制の田んぼである。地名(小字)にも蔵ノ町・徳町(沖田)・深町・高原町(黒丸町)・盛田・黒田・浜田・九の坪と条里制関連の地名が並んでいる。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの
沖田条里遺構

沖田の祇園牛頭天王(おきたのぎおんごずてんのう) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 大村市沖田町の金屋にあり、現在地は郡川及び福重橋(通称:郡橋)の近くである。江戸時代の(大村)郷村記に京都の妙伝寺が願主となって、慶安元年(1648年) 創建されたとある。その当時の場所は国道34号線より上付近で奥行32m、横幅61mの境内があった。また、ご神体は木の座像で、彩色されているとも書いてある。今は規模を縮小して移し、現在地にある。なお、牛頭天王とはインドでは祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の守護神であり、悪疫を防ぐ神として日本では京都祇園の八坂神社などにも祭られている。そのことから昭和初期に郡地区で赤痢が流行した際に、早く鎮まるように祈願したと言う。 昔は長崎街道近くでもあり、往来の多くの人も参詣されたと思われる。今は沖田町の人々が「祇園さん」と親しみを込めて呼ばれ、毎年例祭をしている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの(福重の名所旧跡や地形の)沖田の祇園牛頭天王』、(大村の史跡説明板・案内板シリーズの)(沖田の)祇園牛頭天王

沖田の鹿大明神(おきたのしかだいみょうじん) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明>大村市沖田町の下沖田にあり、集会場の中でまつられている。この鹿大明神は、その名の通り鹿にまつわる由緒がある。この件について大村郷村記に書いてある内容と現状の違い、あるいは様々な説や伝承がある。詳細は、下記から参照願いたい。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの沖田の鹿大明神

沖田の馬頭観音(おきた の ばとうかんのん) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 大村市沖田町にある沖田公民館から北北西へ60mの所(市道脇)にある。本体の高さ54cm、横幅26cm、胴囲83cmである。建立の由緒などについて江戸時代に編纂された(大村)郷村記に記述もないし、地元伝承でも現在では不明である。石像に彫られた碑文は「馬 一」の2文字は分かるが、それ以外は不明である。推測ながら近代の建立と思われる。いずれにしても地元の人が大事に祀っておられ、2017年5月には馬頭観音の周囲を綺麗に整備された。(掲載日:2018年7月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)沖田の馬頭観音

尾崎城(おさきじょう) 所在地:長崎県大村市今富町
<概略説明> 今富町にかつてあった尾崎城は、郡川(こおりがわ)の支流である佐奈河内川(さながわちがわ)の横、今富町公民館の上側方向の丘の上にあった。(ただし、現在は畑になっている)城の本丸は約466平方メートル(=約141坪)、二の郭(くるわ=城のかこい)の長さは約25m・横約13m、三の郭の長さは約72m・横約90m、北東の堀切の長さは約54m・横約5m半、城の正面は南の方へ向いていた。(掲載日:2007年9月13日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)尾崎城

御手水の滝(おちょうずのたき)(通称)裏見の滝(うらみのたき) 所在地:大村市重井田町 滝の落差:約30m
<概略説明>滝だけではなく、春の新緑、シャクナゲの花、秋の紅葉などで1年中、楽しめ、また、巨岩や奇石も見ものである。
古記録によると、この水を汲んで当時の草場郷(現在の草場町)にある”酒の神様”『松ノ尾(まつのお)神社』に奉納され酒が造られていた。江戸時代の(大村)郷村記によると「裏より見る故、世俗”うら見の瀧”とも云う」と記されている。また、別の古記録には別名「みたらしの滝」とも言うと書かれてある。いずれにしても昔から現在まで、この滝の正式名称は御手水の滝(おちょうずのたき)に変わりはない。(掲載日:2006年8月4日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝


御手水の滝(裏見の滝)の岩壁(断崖絶壁) 所在地:大村市重井田町と立福寺町
<概略説明> (重井田町にある)御手水の滝(おちょうずのたき、通称「裏見の滝」)の東西の岩壁(断崖絶壁)は目測ながら高さ約40m、横幅約100mである。この一枚岩は多良山系の火山から流れ出した溶岩が、この地で固まったものと推定されている。この岩壁は江戸時代の古記録(大村)郷村記の「御手水の滝」の項目にも記述されていて、それを現代語訳すると次の「」内通りである。「この谷の北東方向には屏風(びょうぶ)を立てたような一面の絶壁になっていて、高さが、約34m、横約80mあまりの大きい岩である」  この岩の周辺では春にはシャクナゲ公園の花が咲き乱れ、夏は新緑、秋は紅葉など春夏秋冬楽しめる観光地である。(掲載日:2018年7月17日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝(裏見の滝)の岩壁(断崖絶壁) 』、『御手水の滝』、

御手水の滝の経筒(おちょうずのたき きょうづつ、別名「裏見の滝の経筒」) 所在地:大村市立福寺町<御手水の滝(裏見の滝)から西へ約30m登った所>
<概略説明> (滝の場所は重井田町であるが)この経筒が発見された所は滝口から登った立福寺町側の参道(登山道)脇からである。現在、近くに御手水の滝の経筒発見記念碑がある。滑石製で推定ながら西彼杵産ではないかと思われる。制作は平安末期か鎌倉時代のものかと思われるが、正確には不明である。大きさは筒本体で高さ29.5cm 直径33.5cm、蓋の直径:30cm 厚さ(高さ)5cmである。(掲載日:2016年11月12日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝の経筒』、『御手水の滝の経筒発見記念碑』、『御手水の滝

御手水の滝の経筒発見記念碑(おちょうずのたき きょうづつ はっけん きねんひ) 所在地:大村市立福寺町<御手水の滝(裏見の滝)から西へ約30m登った所>から発見され、現在は大村市立史料館に所蔵されている
<概略説明> (滝の場所は重井田町であるが)この記念碑のある所は滝口から登った立福寺町側の参道(登山道)脇にある。経筒発見者が建立された記念碑の碑文を口語訳すると、「昭和10(1935)年旧正月の元日、観音菩薩の神通力により7回お告げ(夢枕に立たれた)を感じて、この現場を試しに一尺五寸(約45 cm)掘ったところ石の蓋(ふた)が出てきた。(さらに掘ると)その下に石壺(経筒)を発見した」と言うことである。この記念碑の正式名称はないが、表題の通りの意味である。
(掲載日:2012年12月24日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝の経筒発見記念碑

尾上城(おのうえじょう)(別名:中構城・峰城) 所在地:大村市田下町(現在の氷川神社周辺)
<概略説明>
 尾上城は別名で中構城(なかかまえじょう)・峰城(みねじょう)とも呼ばれているが、尾上城と中構城の城名は字(あざ)から由来している。峰城は後世に峰氏が居城したからである。この城址は旧・萱瀬村(現在の萱瀬地区)の中心地に位置する。推測ながら敷地規模は南北約125m、東西約130mであった。尾上城は江戸時代後期に完成した(大村)郷村記には記述されているが、それよりも相当速く完成した大村藩領絵図には描かれていない。戦国時代から存在していたとしても近世の城のイメージとは違う、普通の民家よりも敷地も規模も広くて大きい武家屋敷と思われる。その相当部分が江戸時代になって整備・拡張されたものと推測される。城址(現在の氷川神社)後方は天然の要害でもある郡川があり、前方には高い石垣の存在が特徴である。明治時代の道路開通まで(現在の萱瀬出張所近くに)楼門・枡形があったが工事で破壊されてしまった。(掲載日:2013年2月20日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)尾上城


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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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