(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の空襲と戦争遺跡」講話(概要報告)
日時:2022年10月25日 14時50分~ 15時40分
参加数:全体で約222名(生徒211名、先生11名)
講話担当:上野
場所:大村市立郡中学校・体育館
趣旨:郡中学校1年生は、今年10月26日、校外学習「郡地区の戦争遺跡巡り」が予定されている。また、その前の19日にはガイダンス、25日は「郡地区の空襲と戦争遺跡」の講話があった。今回ページ内容は、その講話内容(概要報告と配布資料内容)である。
講話内容:「郡地区の空襲と戦争遺跡」(概要)
<空襲(主に犠牲者数と火災戸数)>
1)松原地区-----空襲や軍事施設(戦争遺跡)は、ほとんどなかった。ただし、松原地区は他の地区からの疎開先(この場合、空襲地域から逃れて仮住まいしたとの意味)であった。また、松原小学校は、長崎原爆•被害者の救護支援の場所になった。その記念碑も校舎前にある。<注:(写真4)=松原小学校の校舎前にある「松原の救護列車の碑」と、そのリンク先ページを参照>
2)福重地区-----犠牲者11名以上(ただし軍人の戦死者は除く)。 この中には年齢9歳の福重小学校の児童や赤ちゃんもいた。この児童は1995(昭和20)年7月5日にアメリカ軍機の機銃で射殺された。あと終戦まで1ヶ月少しだった。 火災戸数は41戸以上。
3)竹松地区-----犠牲者11名以上(ただし軍人の戦死者は除く)。 この中には名前不明の娘さん(たぶん幼児=赤ちゃんか?)も空襲で亡くなった。 火災戸数は117戸以上。
<クイズ>
ここでクイズを出したい。ノーヒントで正解した人には、この冊子(「福重の石仏」)をプレゼントする。
Q1:なぜ、竹松・福重地区は空襲が多かったのか? 両地区には、共通してあるものがあったからだ。それは何か?(漢字3文字で答えなさい)
A1:福重・竹松両地区には、共通して飛行場(竹松には「大村海軍航空隊」、福重地区には「福重飛行場」)があったからだ。
Q2:「富の原」という地名の由来は、何からか? 次の3択から答えなさい。
(1)弾薬庫の名前からだ (2)人の名前からだ (3)平野部の名称からだ
A2:正解は(2)だ。原口富一さんという人名からだ。原口さんは、アメリカのスタンフォード大学に留学していたので、その英語力を使って、元の大村海軍航空隊の土地をアメリカ軍と交渉して取り返した。そして、開墾組合の組合長として農地に変えた人だ。その功績が大きかったので、原口富一さんの「富」から「富の原」の地名(町名)になっている。今は、住宅地として見違えるほどになっている。(詳しくは「大村の偉人、有名人、活躍人シリーズ」の「原口富一」ページを参照)
<戦争遺跡(軍事施設の跡)>
1)現在の郡中学校の敷地=第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡。この航空隊の目的は九州北部を攻撃(空襲)してくるアメリカ軍機へ迎撃戦闘する部隊として1944(昭和19)年8月1日にできて終戦まであった。
(郡中学校の現在の敷地は目測で南北約220m、東西約180mだが)この「三五二空(草薙部隊)」の全体の敷地は目測で南北約950m、東西約350mあった。誘導路や駐機場を含めれば実際の面積は、もっと広かった。町も宮小路•黒丸•沖田町と広がっていた。なお、戦前当時の三五二空(草薙部隊)」の隊舎と現在の郡中学校の校舎の並びは同じ。元々、学校創立当初は、先の隊舎が校舎(教室)として使われていた。
2)皆同町、福重地区住民センターの裏山=皆同砲台跡は小高い丘の北側部分で南北(横幅)約160m、東西(縦)約70mにあった。この砲台の設置目的は、攻撃(空襲)してくるアメリカ軍機を高射砲で撃ち落とすためにあった。ただし、「実際は、ほとんど当たらなかった」という。 現在、地下室(倉庫、弾薬庫、指揮所=会議室など)への空気や明かりの採り入れ口の上に、分厚いコンクリートなどが地上に残っていて直ぐに見れる。
3)現在の今富町や皆同町にある細長い農道、耕作地や住宅地=福重飛行場跡(当時、長さ950m、幅30mの薄いコンクリート滑走路だった) 完成年は1945(昭和20)年5月27日で一番機(戦闘機)が飛んだという。現在はコンクリート製の一直線の農道(長さ約890m、幅約2.5m)がある。この福重飛行場は、戦前はほとんど使われず、戦後の測量写真撮影のプロペラ機が飛んでいたという。
4)今富町、大神宮の境内にある招魂碑(戦死した軍人、空襲で亡くなった民間人の慰霊碑である) その手前側が顕彰碑で、これに福重小学校の児童の名前もある。 (なお、この大神宮の境内には戦争遺跡とは関係ないが「石割樫(いしわりがし)」や「亀石(かめいし)」もある)
5)今富町の帯取の丘、福重砲台跡(当時、直径約200mの範囲内に高射砲の陣地があったという)。砲台の目的などは上記2)の皆同砲台を参照。現在、を示すものは、ほとんどないが一つだけ「地下室への入口」(写真9参照)があるので、見落とさないで欲しい。これは、市道から見えている。(この周辺でアメリカ軍の激しい空襲で軍人多数と福重小学校の児童も亡くなっている)
6)今富町、佐奈河内川の川床に残る誘導路橋の基礎(丸太の柱穴の残るコンクリートで今でも頑丈に残っている。大きさは長さ約30m、幅約1m) この誘導路橋の目的は福重飛行場と竹松にあった飛行場(大村海軍航空隊)との間を行き来した飛行機を通す橋(道路)で両側から行き来した場合に接触しないように、または向きを回転させるために使用されたと思われる。
(注:竹松地区の空襲や戦争遺跡については、6日のガイダンスで、放送録画を見たので内容は省略する。なお、さらに知りたい方は、「福重ホームページ」内の「大村の空襲、戦争遺跡シリーズ(もくじ)」、大村海軍航空隊」や下原口公園内にある「掩体壕(えんたいごう)」(当時の大きさは推定で高さ8m強、横幅約24.5m、奥行15m弱か?)ページなどに詳しく書いている。
まとめ
郡地区(特に竹松・福重地区)には、軍事施設がたくさんあったので、そこをアメリカ軍が狙って攻撃(空襲)をかけてきた。もしかしたら、皆さんの曾祖父母(そうそふぼ=ひいじいちゃん、ひいばあちゃん)も経験され、さらには皆さんの住んでいる家は戦前、空襲で火災に遭い、戦後建て直された可能性だってある。まさしく「戦場は身近で、空襲は住宅地まであった」ということだ。このような犠牲者や空襲を繰り返すより、いつまでも平和であって欲しい。
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<質疑応答>
上記の講話の後、下記のような質疑応答があった。
Q1:掩体壕にコンクリートが使われているが、その当時から使われていたのか?
A1:コンクリート自体は、日本でもかなり古くからあり、近代の建物もあると思う。しかし、予算(財政)や需要の関係から少なかった。戦前戦後は、例えば松原小、福重小、竹松小の校舎自体も木造建築ばかりだった。
Q2:砲台の地下は、どうなっていたのか?
A2:この写真に写る福重砲台のコンクリート製入口は、地下連絡口か、避難場所だったろう。砲台の地下には、アメリカ軍機から空襲を受けても砲弾が爆発しないように地下に貯蔵していたと思う。また、地下には指揮所(会議室)などもあったと考えられる。発掘調査されていないので何とも言えないが、この入口から連絡通路などもあったのかもしれない。
Q3:福重砲台の大きさ(広さ)は、どの位だったのか?
A3:この写真(今富町の帯取の丘)の中心部に砲台があり周囲の広さは、直径で200メートル位あったと聞いた。砲台は中心部の高射砲だけでなく、例えば無線設備、測距儀など多くの施設があるし、この帯取の丘は広いので可能であった。
Q4:不発弾はあったのか?
A4:アメリカ軍、日本軍ともに不発弾はあった。例えば郡中学校から大村郵便局に行く場合、その手前側に消防団があるが、そこに警防団の殉職慰霊碑がある。この碑は、不発弾処理中に亡くなられた警防団(現在の消防団みたいなもの)団員の慰霊碑である。また、福重地区の野田町近くの今富町には、当時の日本海軍の不発弾が見つかり記念写真もある。このように、不発弾は多くあり、戦後も、その処理に困った。(「警防団殉職之碑」ページ参照)
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最後に1年生全員起立して、上野へ「明日お願いします」との挨拶があった。 以上にて、今回の講話は、全て終了した。
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*関係ページ:10月25日の講話や10月26日の校外活動(戦争史跡巡り)と関係した事項のリンク先は、下記の通りである。なお、一部、戦争遺跡とは全く関係ない名所旧跡(めいしょきゅうせき)内容もある。なぜなら、それは、戦争史跡の直ぐ横、もしくは近くにあるので、参考までに紹介している。)
<福重地区>
・沖田町---第三五二空(通称「草薙部隊(くさなぎ ぶたい)」(戦闘機の迎撃部隊)=現・郡中学校の敷地から宮小路周辺までの敷地(写真1を参照)
・皆同町---<今富城跡>、皆同砲台(海軍指揮所と思われる地面上部で空襲対策のコンクリート屋根・空気採り入れ口など) 、 (皆同町側の)福重飛行場跡(使われていた当時は長さ950m、幅30mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない.。「(皆同町側の)史跡説明板」あり )、 <皆同の侍の墓>
・今富町---(今富町側の)福重飛行場跡(使われていた頃は幅30m、長さ950mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない。滑走路全体の長さで今富町側の方が約80%であった。「(今富町側の)史跡説明板」がある。 佐奈河内川の川床には現在も誘導路端の橋脚を支えた丸い穴がいくつもあいた頑丈な幅約1m×長さ30m弱のコンクリート製の基礎=土台部が残っている)
、
<佐奈河内川の今富橋周辺は2020年の水害で大被害が遭った> 、<尾崎城跡(おさきじょうあと) 尾根部の先端所で一説では豪族の今富氏の居城で本丸から三の丸まであった城ともいわれている> <十二社権現跡と帯取殉教地の本当の場所(史跡説明板あり)> <間違い場所にある帯取殉教地と記念碑>
<大神宮>、<亀石>、<石割樫>、招魂碑(氏名が彫られた石碑には軍人だけでなく空襲で犠牲になられた民間人の名前もある) 、<黄金山古墳> 、<今富キリシタン墓碑> <中田橋周辺の市道(通学路でもある):2020年水害時にアスファルト舗装がめくれるほどの被害が出た。この周辺の水田も被害が大きい
今富橋(今富公民館)周辺の尾根や、字(あざ)「丸山」や市道脇6つの隧道(ずいどう)などには21航空廠廠の疎開(そかい)工場兼倉庫があった。防空壕にしては少し大きかった。