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2024年、(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の歴史の講話(概要紹介)
(写真1) 中央奥側側(黒板の前):山下氏の講話中
 野岳遺跡が出土した野岳湖
 旧石器時代、野岳遺跡の細石器 著者:鈴木忠司氏の
『野岳遺跡の細石核と西南日本における細石刃文化』より
冷泉遺跡
黄金山古墳
大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色)
好武城跡(寿古町) 
今富城跡(皆同町)

(大村市立)郡中学校1年生、総合的な学習「郡地区の歴史」の講話(概要報告)
日時:2024年9月4日
14時35分~15時35分
参加数:全体で約 名(生徒 名、先生 名)
場所:大村市立郡中学校1年生の各教室(リモート式)
講話のテーマ:「大村・郡地区の歴史
講師:山下氏(大村市文化振興課・学芸員)
 注1:このページ掲載写真は順不同で、上からの順番などには何の意味もない。
 注2:掲載bの歴史事項あるいは関係写真は、当日スライド上映写真ではなく、既に「福重ホームページ」に掲載中の写真ばかりである。
 注3:ただし、講話内容の歴史事項や史跡と同じものもあるれば、それと同じではないが、参考までに掲載した同じような写真も掲載した。そのため、あくまでも全体通して、参考程度に閲覧願いたい。


2024年の関係ページ
 「2024年8月26日、郡中学校の先生の史跡巡り(下見)」 「2024年8月28日、ガイダンス」 「2024年9月4日、郡地区の歴史の講話(概要報告)

2023年の関係ページ
 「2023年10月19日、郡中学校。先生の戦争遺跡巡り(下見)」  「2023年10月24日、ガイダンス」  「2023年10月30日、郡地区の空襲と戦争遺跡の講話」 「2023年11月1日、校外学習・戦争遺跡巡り

概要:郡中学校1年生の教室にて「郡地区の史跡」についてのガイダンスが、8月28日にありました。また、9月4日には講話があり、そして、9月11日には、校外学習として福重地区の史跡巡りが予定されています。今回このページ内容は、上記の中で、講話(授業)についての概要報告です。 

 ただし、上野は、約50分間、しかも通史にわたる歴史事項を詳細に書く能力はありません。それで、講話内容の「もくじ」みたいな箇条書き風の書き方を今回しています。そして、下記の太文字の歴史事項や各史跡名称にできるだけリンク先の張っていますので、そこからクリックして頂くと詳細内容がある場合もありますので、ご参照願います。

講話のテーマ:「大村・郡地区の歴史」(概要)
原始時代
1) 旧石器時代----野岳遺跡(約1万三千年前、全国には岩宿遺跡など) 石で作った細石器などが出土した。野岳遺跡の発見者は東彼杵町のお坊さんで井手寿謙氏である。

2) 縄文時代-----黒丸遺跡、土器も出土し、火を通した調理をした。これは大事なことだ。また、山より平地に人が住み始めた。

3) 弥生時代-----縄文後期から、さらにコメが本格的に栽培された。富の原遺跡が有名で貴重な鉄の道具も出土した。また、集落の周りには堀があり、環濠集落であった。

<古代(古墳・奈良・平安時代)>
古墳(豪族=地域のリーダーみたいな人の大きな墓)が、例えば郡地区なら、竹松の「鬼の穴古墳」、福重の「石走古墳」や「黄金山古墳」など、松原の「鹿島古墳」  (上野補足:福重の「野田古墳群」も有名である)

・条里遺構----班田収受の法により、郡川の下流域(沖田町など)の広い所に田んぼが作られた=沖田条里遺構。この周辺は重要な所でもあった。

・竹松遺跡----文字の彫られた石が出土した。このような文字のある遺物は珍しく、この周辺には彼杵郡の役所や役人がいた可能性もある。 

<中世(鎌倉・室町・戦国時代)>
 ・平安時代から鎌倉時代にかわり、その後、この時代以降は、武士が時代を動かした
 ・京都の寺院などが庄園をつくり、郡地区にも、それらの庄園があった。
 ・竹松遺跡からは、中国製のお椀も出土し、当時は高級品で役人などが使っていた。(上野の補足:「寿古遺跡」からも沢山の白磁青磁製品が出土し当時、舶来品の高級食器が多かった)

 ・郡七山十坊(こおり しちさん じゅうぼう)-----郡地区には沢山のの仏教寺院があった。しかし、戦国時代、大村純忠の頃、その仏教寺院をキリシタンが焼き討ち破壊し。地名(町名)だけ今でも弥勒寺町、立福寺町、(今富町の)冷泉寺(集落)などが残っている。また、寿古町では僧侶(峰阿乗)がキリシタンにより殺害され、そこには大日堂がある。

・郡三踊り(寿古踊沖田踊、黒丸踊)-----戦国時代の終わり頃から踊られてきた。

・城----戦国時代、大村純忠の頃、たくさんの城が造られた。郡地区では、好武城跡(寿古町)今富城跡(皆同町)などである。 <上野の補足:「岩名城跡(今富町)」 「尾崎(おさき)城跡(今富町)」 「江良(えら)城跡(草場町)」もあった)

<江戸・明治・大正昭和時代>
・郡地区のコメ(米)の収穫高は大きかった
 (上野の補足:下記点線内」のコメの収穫高人口についてスライド上映内容と違うが、参考までに、江戸時代の福重、士農工商」ページを掲載している.。石高(こくだか)とは、コメの量を表している。(「一石(いっこく)」は、「1年間に人が食べる量より少ない位の量」との説もある)

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郡 村
4062石 
大 村
3144石
鈴田村 
1060石
三浦村  855石
萱瀬村  317石
 郡村の中でも福重の生産力が優れていました。水田面積が広かっただけではなく、農耕地としての先進性、人口の集中もあったのです。(竹松は畑の割合が高い)

 福重は、郡村の中の福重村・今富村・皆同村として、或いは3村合併した福重村として栄えました。

郡村3か村の人口などの概要(江戸時代末期の数字)

江戸時代、郡村(福重、竹松、松原)の人口及び商工業者数など
村名
戸数
人口
馬数
武士数
麹屋
染屋
鍛冶屋
豆腐屋
紙屋
酒屋
綿屋
質屋
水車
福重
667
2421
236
107
10
11
14
-
-
-
竹松
705
2528
167
54
-
-
13
-
松原
410
1505
96
37
-
17
10
-
1
-
-







注1: 福重は武士数が多いのが目立ちます。大村藩では禄米ではなく、田(知行地)を支給される家臣が多かったので、水田の多い福重には武士が多かったと思われます
注2: 商工業者数では福重には他に蝋〆1、村医が1人いました。松原はさすがに鍛冶屋17軒が目立ちます。----------・・・----------・・・----------・・・
 福重飛行場
(写真上部が今富町、下部が皆同町)
・長崎街道の発達----江戸時代になり、長崎街道は、人も象も通り大き発展し、郡川には飛び石もあった。また、大村には二つしかない街道の宿として、松原宿があった。

・大村市の誕生と第21航空廠(航空機製造工場)などの軍事施設
・大村市は、昭和 年()2月に1町5村の合併により誕生した。このきっかけは、第21海軍航空廠(航空機製造工場)ができたことが大きかった。

・あと大村には、軍事施設も多くあった。例えば郡地区では大村海軍航空隊第352空海軍航空隊(草薙部隊)などがあった。 (上野の補足:海軍の「福重飛行場」もあった。また、この飛行場跡=現在は長さ約860m、幅約2m50cmの一直線道路を校外学習時に佐奈河内川付近から見学予定である)  これらの戦争遺跡などについては、前回のDVD(放送録画)で詳しく紹介されたと思う。

以上、原始時代から近代まで、駆け足で話した。次の郊外学習時に、色々な史跡を巡って見て欲しい。(念のため、授業時間の関係上、質疑応答はなかった)
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 補足(下記は9月11日の校外学習の予定コース。下記の名称は時計回りグループの順路である。当然、逆時計回りのグループも見る所は同じである) 太文字の名称リンク先を参照願いたい)

 福重端の記念碑(沖田町、郡川の左岸)、郡川の飛び石(皆同町、郡川の右岸、好武城(寿古町) 、皆同砲台跡と、今富城跡(皆同町)、

 今富町の大神宮の境内にある招魂碑(戦死した軍人、空襲で亡くなった民間人の慰霊碑である) (その手前側が顕彰碑で、これにアメリカ軍の戦闘機の機銃で射殺された福重小学校の児童、空襲時の防空壕の落盤事故で亡くなった母子3名含めての名前もある。 (なお、この大神宮の境内には戦争遺跡とは関係ないが「石割樫(いしわりがし)」や「亀石(かめいし)」もある)

 福重砲台跡(今富町の帯取の丘。(この周辺でアメリカ軍の激しい空襲で軍人多数と福重小学校の児童も機銃で射殺された)  福重飛行場跡は、現在の今富町や皆同町にある細長い一直線の農道(注:当時の滑走路の大きさは長さ950m、幅30mの薄いコンクリートだった。現在はその内、長さ約890m、幅約2.5mの農道)

 誘導路橋の基礎(丸太の柱穴の残るコンクリート(<今富町、佐奈河内川(さながわちがわ)の川床>今でも頑丈に残っている。大きさは長さ約30m、幅約1m。 注:この周辺は「2020年7月6日、大村水害」で大きな被害があり、現在、川の拡幅や矢次2号橋の架けかけ工事中である。

 以上が、「時計回り」主な史跡巡りの見学場所である。このコース順で見学が終了したならば、後の道は郡川(こおりがわ)に架かる矢次橋を渡ると竹松本町に入る。そして、この町内に近年できた新しい道路の歩道を歩くと、新幹線のトンネル下にに入り、次に国道34号線の歩道に出ると、郡中学校の入口となる。

 なお、もう一つの「逆時計回り」コースは、上記の逆から歩いていく順路である。そのため、史跡の名称やリンク先は、先の番号と重複するので、このページでは省略する。

初回掲載日:2024年9月5日、第二次掲載碑:9月9日

福重のあゆみ(もくじページ) 


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