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大村辞典
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好武城(よしたけじょう) 所在地:大村市寿古町(好武)
<概略説明> この好武城は史料(資料)的に(大村)郷村記と大村藩領絵図の二つに載っているので、この地に城が存在したのは間違いないと思われる。ただし、(大村)郷村記にある築城主の大村純治については様々な説があり簡単には言えない状況である。この場所は小高い丘だが城(本丸部分)としては狭く、また平地に近いため攻め込まれやすい形状である。そのため城としては長期間には使われなかったのではないかとの説もある。それを裏付けるように城の期間=戦国時代の遺物が今までの寿古遺跡の発掘からは少ない状況である。この地は古代肥前国時代から好武城築城以前の間は彼杵郡家(彼杵郡の郡役所)、その後、彼杵荘園の管理事務所が置かれたとも言われている。好武城の詳細は、下記から参照)
(掲載日:2012年12月17日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)好武城

陽白(ようはく) 所在地:大村市松原一丁目(個人宅の横、市道脇)
<概略説明> 陽白と彫られている
自然石の大きさは高さ約150cm、横幅約80cm、周囲200cmである。この石塔は「陽白」という文字が彫ってある以外、基礎的史料(資料)が少なすぎて建立年代、建立目的など、ほとんど不明である。なお、長崎県文化財調査報告書第3集 昭和39年度 民俗資料調査報告書によると、「疣(いぼ)の神」という説が書いてある。ただし、この説は建立当初の、元々の意味のあった石塔(石碑)が、後年、本来の由緒そのものが分からなくなって、いつの年代か不明ながら「疣(いぼ)の神」などと地元で呼ばれてきたのではないかとも推測される。<注:(下記リンク先通り)漢字二文字が彫ってあり、詳細な由緒などが現在では不明な石塔が他にも「陽林」、「道看」、「三伯」などがある> (掲載日:2016年11月29日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?>ページの『陽白

陽林(ようりん) 所在地:大村市弥勒寺町(弥勒寺公民館の庭)
<概略説明> この自然石の大きさは台座を除いて高さ約204cm、横幅約98cmである。石の上部やや中央より左側部分に陽林と彫られている。この文字は大きくて肉眼でもはっきり分かる。江戸時代の大村郷村記に陽林のことを指しているのか、どうか不明ながら「地蔵 石立像 例祭不知」との記述がある。この記述以外に
基礎的史料(資料)も伝承もなくて建立年代、建立目的など、ほとんど不明である。あと、大村市の文化財(改訂版、大村市教育委員会、2004年3月発行)という本には、<「陽林」と刻んだ大きな自然石が建っています。これは地蔵菩薩のことだといわれています>と書いてある。しかし、大村郷村記にも書いてある陽林の「地蔵菩薩」説は疑問があるとの意見もある。むしろ、地元では弥勒寺に関係した人(住職など)の墓碑ではなかとの説も出されている。しかし、どの説も決定的な根拠がない。<注:(下記リンク先通り)漢字二文字が彫ってあり、詳細な由緒などが現在では不明な石塔が他にも「陽白」、「道看」、「三伯」などがある> (掲載日:2016年12月8日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)<「福重の名所旧跡や地形」の『弥勒寺の陽林』 、 漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?>ページの『陽林


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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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