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大村辞典
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長岡左近純生の墓(「ながおか さこん すみお」か?) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> 史跡説明板から一部を引用・参照すると次の通りである。長岡左近の曾祖父長岡純重は、文明6年(1474)の中岳合戦で大村純伊を助け子息4人一族・従臣76人と共に討ち死にした。この時、末子千代之助(純生の祖父純胤)は母と共に佐賀県小城の千葉氏を頼り、小城で成長した。大村純伊が帰国した後、大村家の家臣にもどり、父の純胤の代には大村純忠に仕えた。永禄6年(1563)純忠のキリスト教入信により、大村に内乱がおこり、武雄の後藤貴明がこれに乗じて野岳に攻め込んだ。この時、千綿の地侍寺井近江は後藤勢に付いて千綿の小峰城で兵を挙げた。大村純忠は長岡重胤・純生に追い討ちを命じた。父重胤は戦死したが、純生はこれにめげず奮戦し、大将寺井近江を討ち取った。時に18歳、その名は近隣にとどろいた。その後、数々の戦闘で武功をたて、この墓一帯に屋敷を賜り、寛永18年(1641)96歳で亡くなった。この碑は享保年間(1716?1736)に子孫が純生の功をたたえて建立した(詳細は下記から参照)(掲載日:2021年5月1日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページ、史跡説明板シリーズの)長岡左近純生の墓

中岳砦(なかたけとりで) 所在地:大村市中岳町
<概略説明> 中岳砦は大村藩領絵図には「小城」、大村郷村記には「中岳砦蹟(中岳砦)」と表記されている。現在でも地元の方から「城の辻(しろのつじ)」などと呼称されている。城の規模として、『大村郷村記』には、 「真中に廣さ四畝』(約四○○平方メートル) ほどの小高き所あり。廻りに隍(ほり)の形あり」、『新編大村市史』には「砦は約一○メートル四方の主曲輪とその西側に二ノ曲輪、更にその南側に広い三ノ曲輪が階段状に配置されている」と記述されている。現在、主曲輪(本丸)は山神宮の境内になっている。(詳細は下記から参照)(掲載日:2017年12月26日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『中岳砦

長崎空港顕彰碑(森園公園側)(ながさき くうこう けんしょうひ) 所在地:大村市森園町
<概略説明> この場所は大村市森園町、森園公園の北端部(通称「長崎空港の入口周辺」)である。本碑の正面向かって左隣(東側)には、「久保勘一先生の銅像」がある。表・裏側の両面に碑文がある。その主な内容は、長崎空港建設前に大村水交会が、空港の敵地として箕島を県に具申(提案)された関係などである。また、表面には昭和52年(1977)5月1日付けで長崎県知事の久保勘一氏から大村水交会へ感謝状が贈呈された内容である。裏面は、昭和52年(1977)5月25日付けで本碑建立についての詳しい趣意書である。 なお、本体部の大きさは、高さ86cm、横幅75.5cm、奥行き30cm、胴囲2m11cmで、台座含めた全体高は1m10cmである。  (詳細は下記から参照)(掲載日:2024年7月6日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)長崎空港顕彰碑(森園公園側)』、「久保勘一先生の銅像

長崎空港の名称碑(ながさき くうこう の めいしょう ひ)、所在地:大村市箕島町(長崎空港)
<概略説明> この場所は長崎空港の空港ビルに行く場合、駐車場側の植栽部分にある。長崎空港は大村湾に浮かぶ「箕島(みしま)」などを埋め立てる工事がおこなわれ、1975年5月1日に共用開始(開港)した。当時「世界初の海上空港」とも呼ばれた。この碑文について、名称碑の両面には「長崎空港」、台座の南側の下部に(建立者名の)「大村ライオンズクラブ」の文字が彫られている。ただし、建立年月日の碑文がないようである。そのため推測ながら本碑の役目上からして先の「1975年5月1日に共用開始(開港)」と同じような時期か、遅れたとしても、あまり期間を開けずに建立されたものと思われる。なお、名称部の本体(プレート)の大きさは高さ70cm、横幅1m11cm、厚さ7.5cmである。台座部分は高さ:1m37cm、底部の)横幅:2m6cm 、(底部の)奥行き:1m7cmである。(掲載日:2024年11月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『長崎空港の名称碑』 長崎空港顕彰碑(森園公園側)』、「久保勘一先生の銅像

永松(長松)の馬頭観音(ながまつ の ばとうかんのん) 所在地:大村市寿古町
<概略説明>この馬頭観音は寿古公民館もある寿古公園敷地(北北西端)から北北西へ20数メートル行った道路脇に立っている。建立年や建立者などについて本体下部に次の「」内の碑文が彫ってある。「明治廿六年四月一日 馬頭観世音 施主 平惣吉」<現代語訳「馬頭観音を明治26(1893)年4月1日に施主(建立者)の平惣吉(ひら そうきち)が建立した」> この碑文通り本像は個人の建立(所有)である。本体の大きさは高さ70cm、横幅30cm、胴囲88cmである。(詳細は下記から参照)(掲載日:2018年7月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)永松(長松)の馬頭観音

長与専斎の旧宅(ながよ せんさい の くううたく) 所在地:
<概略説明>(市教委の説明版から飲用)長与専斎は、種痘で有名な藩医長与俊達(ながよ しゅんたつ)の孫で天保九(一八三六)大村片町で生まれました。父•中庵も蘭学を学んだ医者でしたが四歳の時に亡くなったため専斎は祖父俊達によって育てられ祖父の影響で医学を志すようになりました。藩校五教館で学んだ後、安政元年(一八五四)大坂の緒方洪庵(おがた こうあん)の適塾で蘭学を学び、同六年長崎のポンペの医学伝習所などで体系的に医学教育の確立のために力を注ぎました。明治四(一八七一)欧米の医q制度を視察した後、文部省の医務局初代局長となり、後には、東京医学校の校長も兼任しました。その後、医務局は、内務省衛生局と変わり、専斎は初代局長となりました。「衛生」という用語は、このとき専斎によって作られたことは有名で、近代医療制度の基礎を築いた人物として日本の近代化に大いに貢献しました。死後、生前の功により、男爵を授けられています。 この旧宅は、天保初年(1830年頃)俊達が建てたもので、「宜雨宜晴亭(ぎうぎせいてい)」と呼ばれ、当時は片町の海岸にあり、専斎は幼少のころ、この家で育ちました。明治三十三年国立大村病院長篠崎哲四郎氏や、田作甚作氏などの尽力により、現在の場所に移築されたので、専斎の号をとって「松香館」と呼ばれています。(詳細は下記から参照)(掲載日:2024年9月29日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)長与専斎の旧宅』 『長与専斎の銅像

鳴滝(なるたき) 所在地:大村市武留路町
<概略説明> 鳴滝は餅の浜川(もちのはまがわ)の中流域にある。落差は約7mである。ここの滝壺は、横幅約16m、奥行き約8mある。この滝を中心に上下流域約100mほどの間には落差の小さい滝がいくつかある。また、滝の岩場、川床の奇岩、巨石、樹木など渓谷美も素晴らしい。鳴滝の水は川の水もあるが、多くは岩場から噴き出している伏流水である。(詳細は下記から参照)(掲載日:2009年6月13日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『鳴滝

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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