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大村辞典
はじめに
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大村辞典 お”の項目

お”の項目
大村火力発電所(おおむら かりょく はつでんしょ) 所在地:大村市寿古町
<概略説明> 正式名称は九州電力株式会社・大村発電所である。この発電所は2004年に全て廃止になった。(その場所は現在、太陽光発電所の大村メガソーラー第4発電所となっている) 大村発電所1号機は1955(昭和30)年10月に建設着工、1957(昭和32)年8月11日に運転開始(石炭、6.6万kW)だった。そして1983(昭和58)年4月1日に廃止となった。 大村発電所2号機は1962(昭和37)年3月から建設着工、1964(昭和39)年8月20日に運転開始(石炭、15.6万kW)
だった。そして2004(平成16)年3月31日 に廃止となった。(掲載日:2019年10月12日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ役目を終えて 大村発電所』 「大村発電所1号機」 「大村発電所2号機

大村権七郎の墓碑(おおむら ごんしちろう の ぼひ) 所在地:大村市福重町(妙宣寺・位牌堂東側の丘)
<概略説明> 大村権七郎は(大村)郷村記によれば大村藩第四代藩主の大村純長(おおむら すみなが)と妾(めかけ=結婚していない愛人)の間に生まれた子である。父の大村純長は甲斐国徳美藩(現・山梨県)の伊丹家(純長は幕府勘定奉行・伊丹勝長の四男)から養子で大村家に来て、その後、郡崩れの事件が発生した時の大村藩第四代藩主である。そのため大村純長は藩主の中では有名な人である。大村権七郎の事績は古記録などに詳細な記述はないようだ。大村家関係は菩提寺である本経寺の墓地に埋葬されている例が多い。しかし、この大村権七郎の墓碑が(当時の)福重村矢上郷の妙宣寺境内にあるのは菩提(ぼだい=死後の冥福のこと)を弔う(とむらう)ため、この地に葬った(ほうむった)と言う.。墓碑全体の高さは250cmで、墓碑本体の高さは109cm、横幅は38cm、胴囲は127cmである。(掲載日:2018年7月22日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ(「大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など」の)大村権七郎の墓碑

大村の経筒(おおむら の きょうづつ) 所在地:大村市(弥勒寺町、草場町、大村市立史料館)
<概略説明> 広辞苑には経筒について「経典を入れて経塚に埋めるために用いる筒」と解説されている。その経筒が大村市内には「弥勒寺の経筒」「草場の経筒その1」「草場の経筒その2」「草場の経筒その3」「御手水の滝の経筒」「箕島の経筒」の5個が現存している。「経ヶ岳の経筒」は江戸時代に山頂で発見されたが既に壊れていた。経筒が造られたのは平安時代末期に流行した末法思想の頃から鎌倉時代初期が多いともいわれている。末法思想と、それに基づいて経筒、経塚、滑石製平安仏(単体仏)などが造られたのは一説によると「永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えた。そのため、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めた」と言われている。また、その経塚の上には信仰と目印のために単体仏など(大村では「滑石製の平安仏」が多い)が安置された。なお経筒は中に入っていた経典とともに、その当時のことを知る手掛かりになるため「日本最古のタイムカプセル」と呼ぶ人もいる。(掲載日:2018年9月13日、第二次掲載日:2019年3月22日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページ)『大村の経筒

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大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑<おおむら よしずみ ふさい(せいあ・せいしん)の ぎゃくしゅうひ> 所在地:大村市今村町
<概略説明> 逆修碑とは大辞林によれば「生前に自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること」である。この逆修碑の建立年は正確には分かっていない。ただし、先の国語辞典の通り、逆修碑は生前に造られているので、大村良純の没年「永禄12年(1569)3月6日」より早い時期と推測される。碑文には漢字8文字で「清阿 清心 為 菩提 也」と彫られていて、その口語訳は「清阿(せいあ)、清心(せいしん) 菩提(ぼだい)となすなり」である。大村良純は戦国時代に活躍した武将だったが、大村家の長男ながら家督が相続できなかったりと不遇(不運)の人とも、いわれている。また、この碑もある(当時の)三浦村を治めていたが、ここは諫早領と近く戦国時代は緊張状態が続く場所でもあった。そのため、この逆修碑は死後の冥福(めいふく)を祈っただけではなく生前の安全安心も祈願して建立したともいわれている。逆修碑本体のみの大きさは高さ1m34cm、横幅57cm。奥行:56cm、胴囲170cmである。(掲載日:2020年12月4日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページ
)『大村良純夫妻(清阿・清心)の逆修碑

御神立ち(おかみたち、大村弁:おかんたち) 所在地:大村市内の神社や権現(一例:野田町の本蔵権現)
<概略説明> この御神立ちは神無月(かんなづき)関係行事と関連があり、大辞泉には次の<>内などが書いてある。神無月(かんなづき)=陰暦10月の異称。語源については、全国から神々が出雲大社に集まるため、諸国に神がいなくなる月の意からという俗説が古くからいわれている。別に、新米で酒をかもす「醸成月(かみなしづき)」、あるいは雷の鳴らない「雷無月(かみなしづき)」の意ともいわれるが、「な」は「の」の意で、神を祭る月すなわち「神の月」の意とする説が有力> <同じような意味で、神議り(かむはかり)の言葉は下記の「御神待ち」項目を参照>
 この辞典と俗説・通説によれば全国に沢山いらっしゃる神様が陰暦10月に出雲大社に集まられるので、各地から「神様が旅立ちされる日=” 御神立ち”」という訳である。大村市内や福重地区内各所の神社や権現で、この種の行事は開催されているが、野田町の本蔵権現を一例に挙げれば現在は10月初旬におこなわれている。その主な内容は参加者一同で神殿に向かって礼、掃除
(拝殿内・境内・境内の周囲など)(掃除終了後)石祠(神殿)、拝殿に榊・お神酒やごっくさん(三角形のおにぎり)などをあげ、再度、参加者全員は拝殿内に集合し「二礼二拍手一礼」をする。なお”御神立ち””秋の例祭(くんち)”御神待ち”は秋に開催されている神社や権現の関係した三行事といえる。ただし、先の行事はその年度ごとの締め元(世話役)班によって内容の違いはあるし、大村市内や福重地区内各所によっても違う。(掲載日:2019年11月21日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ、「大村歳時記」の『御神立ち』 、『(野田の)本蔵権現』 、『ごくさん、ごっくさん』 、『福重地区のくんち(宮日、秋の例祭)

御神待ち(おかみまち、大村弁:おかんまち) 所在地:大村市内の神社や権現(一例:野田町の本蔵権現)
<概略説明> この御神待ちは神無月(かんなづき)関係行事(上記の「御神立ち」項目の辞典参照)と関連がある。同じような意味で次の大辞泉の<>内も参照。神議り(かむはかり)=陰暦10月、日本中の神々が出雲大社に集まり、農業や男女の縁結びについて話し合いをするという伝説。かむはかり>
 この辞典と俗説・通説によれば諸国の神様が陰暦10月に出雲大社に集まられ会議をされた後、今度は逆に神様は諸国に帰って来られる。その戻られる日に各地の神社や権現で気持ち良く神様を迎える儀式が御神待ちである。大村市内や福重地区内各所の神社や権現で、この種の行事は開催されているが、野田町の本蔵権現を一例に挙げれば現在は10月下旬
(諸事情により11月初旬含めて)におこなわれている。その主な内容は参加者一同で神殿(石祠)に向かって「二礼二拍手一礼」をする。そして掃除(拝殿内・境内・境内の周囲など)(掃除終了後)石祠(神殿)、拝殿に榊・お神酒やごっくさん(三角形のおにぎり)などをあげる。その後しばらくして子ども相撲大会をおこなう。次に野田公民館に場所を移して相撲大会に参加した子ども達には賞品を渡したり、当年度の締め元(世話役)代表の挨拶後、食事会となる。なお”御神立ち””秋の例祭(くんち)”御神待ち”は秋に開催されている神社や権現の関係した三行事といえる。ただし、先の行事はその年度ごとの締め元(世話役)班によって内容の違いはあるし、大村市内や福重地区内各所によっても違う。(掲載日:2019年11月22日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ、「大村歳時記」の『御神待ち』 、『2019年11月4日の御神待ち』 、『御神立ち』 、『(野田の)本蔵権現』 、『ごくさん、ごっくさん』 、『福重地区のくんち(宮日、秋の例祭)

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小川内の馬頭観音(おがわち の ばとうかんのん) 所在地:大村市小川内町
<概略説明> 小川内町を南北に通る市道の横(東側)にある。建立年月日と建立者は土台石の碑文によると大正7(1918)年旧3月19日に小川内(郷)で建設(建立)している。本像の大きさは高さ56cm、横幅24cm、胴囲68cmである。像の 基本形は三面六臂(さんめんろっぴ)の立像で、上下左右の均整がとれたものである。保存状態も良い。
(掲載日:2015年9月19日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの小川内の馬頭観音

沖田踊(おきた おどり) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 沖田踊は寿古踊、黒丸踊ととも大村の郡三踊り
(こおり さん おどり)と呼ばれ、いずれも2014年3月10日、重要無形民俗文化財(国指定)となっている。円陣を作って,太刀とナギナタが向い合って踊る形は,県内はもちろん九州でも見かけない踊りといわれている。踊り起源は諸説あるが500年以上にわたって地元で継承されてきた。現在でも例えば大村の花祭り、大村の秋祭りなど、3年ごとに踊りが会場で披露されている。(掲載日:2018年7月12日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『沖田踊』、『沖田踊の踊り庭跡』、『
大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について』、『郡三踊りは”神事芸能踊り”

沖田踊の踊り庭跡(おきたおどり の おどりにわ あと、大村弁:おどんにわ 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> この踊り庭跡は古記録類は記述がないが、長年地元で「おどんにわ」と言い伝えられてきた。その場所は沖田町の沖田氏宅の庭(敷地)である。この場所は下沖田と桑原地域の中間部に当たり、踊りの練習(稽古)するために集合しやすかった所とも想像される。この庭がいつの年代から使われたのか正確には不明ながら、地域伝承などを参考にすれば江戸時代から近代にかけてと推測される。戦前もしくは戦後に沖田公民館が建設された以降は同所で練習されている。(掲載日:2018年2月26日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『沖田踊の踊り庭跡


沖田郷の道路改修記念碑(おきたごう の どうろ かいしゅう きねんひ) 所在地:長崎県大村市沖田町(現在は個人宅の生垣)
<概略説明> この記念碑の碑文によれば「大正十四年四月」(1925年4月)に建立された。また碑文には(当時、福重村の)沖田郷11名、竹松村5名、松原村2名、福重村3名、長崎市2名、総員23名。建設委員4名の氏名と寄付金総額605円なども彫ってある。道路の場所について建設当時の詳細記録がないので先の碑文内容と地元伝承も含めて推測すると、現在の大村市立郡中学校の西側にある直線道路(現在は2車線、1925年建設当時は1車線)と一部ながら竹松に通じる道路の拡張工事であった。なお道路改修記念碑と呼ばれているが、実際は狭い里道<赤道、道幅(数10cm〜1m以下)>を馬車(荷車、大八車)が通れる位(2m強)に拡張したので(当時としては)新規の道路建設工事に匹敵したとも推測される。(掲載日:2019年9月29日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『沖田郷道路改修記念碑
 
--準備中--

沖田条理遺構(おきたじょうりいこう) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 大村市沖田町、郡川左岸一帯の田んぼ(現在、一部畑も含む)のことを言う。 ここで見られる碁盤の目のような区割りは、近代にトラクターなどが入るために圃場整備(基盤整備)されたものではなく、約1300年前から延々と続く条理制の田んぼである。地名(小字)にも蔵ノ町・徳町(沖田)・深町・高原町(黒丸町)・盛田・黒田・浜田・九の坪と条里制関連の地名が並んでいる。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの
沖田条里遺構

沖田の祇園牛頭天王(おきたのぎおんごずてんのう) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 大村市沖田町の金屋にあり、現在地は郡川及び福重橋(通称:郡橋)の近くである。江戸時代の(大村)郷村記に京都の妙伝寺が願主となって、慶安元年(1648年) 創建されたとある。その当時の場所は国道34号線より上付近で奥行32m、横幅61mの境内があった。また、ご神体は木の座像で、彩色されているとも書いてある。今は規模を縮小して移し、現在地にある。なお、牛頭天王とはインドでは祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の守護神であり、悪疫を防ぐ神として日本では京都祇園の八坂神社などにも祭られている。そのことから昭和初期に郡地区で赤痢が流行した際に、早く鎮まるように祈願したと言う。 昔は長崎街道近くでもあり、往来の多くの人も参詣されたと思われる。今は沖田町の人々が「祇園さん」と親しみを込めて呼ばれ、毎年例祭をしている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの(福重の名所旧跡や地形の)沖田の祇園牛頭天王』、(大村の史跡説明板・案内板シリーズの)(沖田の)祇園牛頭天王

沖田の鹿大明神(おきたのしかだいみょうじん) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明>大村市沖田町の下沖田にあり、集会場の中でまつられている。この鹿大明神は、その名の通り鹿にまつわる由緒がある。この件について大村郷村記に書いてある内容と現状の違い、あるいは様々な説や伝承がある。詳細は、下記から参照願いたい。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの沖田の鹿大明神

沖田の馬頭観音(おきた の ばとうかんのん) 所在地:長崎県大村市沖田町
<概略説明> 大村市沖田町にある沖田公民館から北北西へ60mの所(市道脇)にある。本体の高さ54cm、横幅26cm、胴囲83cmである。建立の由緒などについて江戸時代に編纂された(大村)郷村記に記述もないし、地元伝承でも現在では不明である。石像に彫られた碑文は「馬 一」の2文字は分かるが、それ以外は不明である。推測ながら近代の建立と思われる。いずれにしても地元の人が大事に祀っておられ、2017年5月には馬頭観音の周囲を綺麗に整備された。(掲載日:2018年7月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)沖田の馬頭観音

尾崎城(おさきじょう) 所在地:長崎県大村市今富町
<概略説明> 今富町にかつてあった尾崎城は、郡川(こおりがわ)の支流である佐奈河内川(さながわちがわ)の横、今富町公民館の上側方向の丘の上にあった。(ただし、現在は畑になっている)城の本丸は約466平方メートル(=約141坪)、二の郭(くるわ=城のかこい)の長さは約25m・横約13m、三の郭の長さは約72m・横約90m、北東の堀切の長さは約54m・横約5m半、城の正面は南の方へ向いていた。(掲載日:2007年9月13日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)尾崎城

御手水の滝(おちょうずのたき)(通称)裏見の滝(うらみのたき) 所在地:大村市重井田町 滝の落差:約30m
<概略説明>滝だけではなく、春の新緑、シャクナゲの花、秋の紅葉などで1年中、楽しめ、また、巨岩や奇石も見ものである。
古記録によると、この水を汲んで当時の草場郷(現在の草場町)にある”酒の神様”『松ノ尾(まつのお)神社』に奉納され酒が造られていた。江戸時代の(大村)郷村記によると「裏より見る故、世俗”うら見の瀧”とも云う」と記されている。また、別の古記録には別名「みたらしの滝」とも言うと書かれてある。いずれにしても昔から現在まで、この滝の正式名称は御手水の滝(おちょうずのたき)に変わりはない。(掲載日:2006年8月4日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝


御手水の滝(裏見の滝)の岩壁(断崖絶壁) 所在地:大村市重井田町と立福寺町
<概略説明> (重井田町にある)御手水の滝(おちょうずのたき、通称「裏見の滝」)の東西の岩壁(断崖絶壁)は目測ながら高さ約40m、横幅約100mである。この一枚岩は多良山系の火山から流れ出した溶岩が、この地で固まったものと推定されている。この岩壁は江戸時代の古記録(大村)郷村記の「御手水の滝」の項目にも記述されていて、それを現代語訳すると次の「」内通りである。「この谷の北東方向には屏風(びょうぶ)を立てたような一面の絶壁になっていて、高さが、約34m、横約80mあまりの大きい岩である」  この岩の周辺では春にはシャクナゲ公園の花が咲き乱れ、夏は新緑、秋は紅葉など春夏秋冬楽しめる観光地である。(掲載日:2018年7月17日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝(裏見の滝)の岩壁(断崖絶壁) 』、『御手水の滝』、

御手水の滝の経筒(おちょうずのたき きょうづつ、別名「裏見の滝の経筒」) 所在地:大村市立福寺町<御手水の滝(裏見の滝)から西へ約30m登った所>
<概略説明> (滝の場所は重井田町であるが)この経筒が発見された所は滝口から登った立福寺町側の参道(登山道)脇からである。現在、近くに御手水の滝の経筒発見記念碑がある。滑石製で推定ながら西彼杵産ではないかと思われる。制作は平安末期か鎌倉時代のものかと思われるが、正確には不明である。大きさは筒本体で高さ29.5cm 直径33.5cm、蓋の直径:30cm 厚さ(高さ)5cmである。(掲載日:2016年11月12日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝の経筒』、『御手水の滝の経筒発見記念碑』、『御手水の滝

御手水の滝の経筒発見記念碑(おちょうずのたき きょうづつ はっけん きねんひ) 所在地:大村市立福寺町<御手水の滝(裏見の滝)から西へ約30m登った所>から発見され、現在は大村市立史料館に所蔵されている
<概略説明> (滝の場所は重井田町であるが)この記念碑のある所は滝口から登った立福寺町側の参道(登山道)脇にある。経筒発見者が建立された記念碑の碑文を口語訳すると、「昭和10(1935)年旧正月の元日、観音菩薩の神通力により7回お告げ(夢枕に立たれた)を感じて、この現場を試しに一尺五寸(約45 cm)掘ったところ石の蓋(ふた)が出てきた。(さらに掘ると)その下に石壺(経筒)を発見した」と言うことである。この記念碑の正式名称はないが、表題の通りの意味である。
(掲載日:2012年12月24日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)御手水の滝の経筒発見記念碑

鬼の石(おにのいし) 所在地:大村市小川内町(町墓前の市道から西側へ直線で約150mの所)
<概略説明> この鬼の石は畑の中に1個だけポツンとある大きな石である。石の大きさは東側から見て高さ約4m50m、横幅約4m80cm、奥行約6m、外周約18m50cmである。地元に伝わる話として「大昔、大きな鬼が、ふんどしの前垂れに包んで、鈴田の谷をひとまたぎに渡ろうとしたときに、そのふんどしの紐(ひも)が切れて落としたものだ」といわれてきた石である。また、鬼に関係した地名として「鬼が谷をまたいだ時の右の足形が中里町の山の中腹にあり、左足の形は現在、徳泉川内に足形という池名が残っている」といわれている。(掲載日:2019年5月22日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの(史跡説明板シリーズの)『鬼の石』  『
2017年 大村市立鈴田小学校・地域学習・鬼の石見学(11月28日の概要報告)

--準備中--

尾上城(おのうえじょう)(別名:中構城・峰城) 所在地:大村市田下町(現在の氷川神社周辺)
<概略説明>
 尾上城は別名で中構城(なかかまえじょう)・峰城(みねじょう)とも呼ばれているが、尾上城と中構城の城名は字(あざ)から由来している。峰城は後世に峰氏が居城したからである。この城址は旧・萱瀬村(現在の萱瀬地区)の中心地に位置する。推測ながら敷地規模は南北約125m、東西約130mであった。尾上城は江戸時代後期に完成した(大村)郷村記には記述されているが、それよりも相当速く完成した大村藩領絵図には描かれていない。戦国時代から存在していたとしても近世の城のイメージとは違う、普通の民家よりも敷地も規模も広くて大きい武家屋敷と思われる。その相当部分が江戸時代になって整備・拡張されたものと推測される。城址(現在の氷川神社)後方は天然の要害でもある郡川があり、前方には高い石垣の存在が特徴である。明治時代の道路開通まで(現在の萱瀬出張所近くに)楼門・枡形があったが工事で破壊されてしまった。(掲載日:2013年2月20日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)尾上城


帯取塚跡(おびとりづかあと) 所在地:大村市今富町(現在の乗合いタクシー停留所「今富町」周辺)
<概略説明>
 この帯取塚について(大村)郷村記(現代語訳)によれば「大昔この所に帯のような石が(天から)降ってきたので、この塚を築き帯取塚と名付け、来世にそのしるしを残して、それより塚の名前を郷所(町名)と呼ぶようになった」と記述されている。この内容通り、この帯取塚とは今富町の帯取に、かつてあった石組(石垣)でできた塚のことである。その当時の石組は数段の石垣で塚上部にサクラ(桜)と、ハギ(萩)が植わっていた。ただし、現在は帯取塚はなくなっており道路や歩道もしくは田んぼになっている。この塚は、江戸時代の(大村)郷村記や大村藩領絵図に記述されていて「帯取、前帯取、後帯取」の地名発祥地である。さらに地域伝説から派生したと思われる「天女伝説」が、伝承されてきた所でもある。(掲載日:2020年3月2日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『帯取塚跡


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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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