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福重ガイドマップ <概略説明> この福重ガイドマップは2010年2月15日、福重げんきプロジェクト実行委員会によって初版が発行された。その経過は2007年6月20日、大村市から委嘱された委員会発足後、約3年間の討論・写真・文章作成などの作業をおこない完成させた。主な作成趣旨は(1)ガイドマップの宣伝効果による福重地区への観光客誘致策、 (2)福重地域の再発見、再見直し、 (3)単発・一過性の事業でなく長年継続して使える事業などであった。つまり「地域起こし」の一環であり、福重の観光施設はもちろんのこと、できれば市内外の観光案内所にも、このガイドマップを設置し多くの観光客の方に福重に来て頂き、観光農園や史跡のウォーキング、食事や特産物の購入の手引きにもなればと思い作成した。 福重ガイドマップ内容は絵図(地図)、特産物、名所旧跡、観光巡りコース、郷土芸能、主要施設などの紹介である。(掲載日:2019年1月16日) <関連詳細ページ>・(福重ホームページの『福重ガイドマップ紹介』 「表面ページ(302KB)」 「裏面ページ(373KB)」 |
福重郷土史同好会(ふくしげ きょうどし どうこうかい) 所在地:大村市福重地区 <概略説明>福重郷土史同好会(以降、「同好会」と称する)の発足は、その前身である福重郷土史講座の第1回講座の2003年11月10日である。同好会発足は当時の講師の提案で、その後は講座、講演会、史跡巡り、例会、大村市内全域の史跡や石仏調査などの諸活動を続けている。そして、2023年11月には発足20周年を迎えた。また、弥勒寺町内会などとともに「清水の線刻石仏」「上八龍の滑石製平安仏」など3体、「草場の経筒その3」などを新発見した実績もある。さらに、2012年度から福重地区まちづくり活性化委員会の事業依頼により史跡説明板(2024年3月で35基)を設置している。同好会発行の書籍類として「福重の石仏」「2020年7月6日、大村水害」の冊子を作成した。さらに会員個人の作成、発行ながら多くの小冊子の発行や「福重ホームページ」による各種の情報発信も続けている。(掲載日 2024年1月22日) <関連詳細ページ> 「福重郷土史講座」 「福重郷土史同好会」、(同好会発行の冊子)「福重の石仏」と「2020年7月6日、大村水害」 「福重ホームページ」 |
準備中 |
福重小学校(ふくしげしょうがっこう) 所在地:大村市福重町230番地 |
福重小学校・創立百周年記念碑(ふくしげしょうがっこう そうりつひゃくしゅうねん きねんひ) 所在地:大村市福重町230番地 <概略説明> 福重小学校は1872(明治5)年8月に開校した。その開校から100年経った昭和48(1973)年2月19日に現在地の福重小学校・相撲場の東側に創立百周年の記念碑が建立された。記念碑本体は高さ1m72cm、幅88cm、周囲2m60cmである。 碑文は正面の太文字で「創立百周年記念碑」、その文字の両脇には「大村市立福重小学校」と「昭和四十八年二月十九日 建立」と彫ってある。なお同じ建立年月日に他の4基(寿古の本校跡、皆同の本校跡、立福寺分教場跡、重井田分校跡)の記念碑も同時にたてられた。 (掲載日:2016年3月10日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの「福重小学校・創立百周年記念碑」、『福重小学校紹介もくじ(ページ)』、「福重小学校の概要」、「福重小学校の歴史」、、「皆同町にある福重小学校の本校跡」、「福重小学校・立福寺分教場跡」、「福重小学校・重井田分教場跡」、「福重小学校にある白馬さま」、「福重小学校の二宮金次郎」 |
福重小学校・重井田分教場跡(ふくしげしょうがっこう しげいだ ぶんきょうじょうあと) 所在地:重井田町 |
福重小学校にある白馬さま(ふくしげしょうがっこうにある しらうまさま) 所在地:福重町、福重小学校 |
福重小学校の二宮金次郎像(ふくしげしょうがっこう の にのみや きんじろう ぞう) 所在地:福重町、福重小学校 <概略説明> 本像の建立年は1944(昭和19)年9月で、寄贈者(建立者)は柴田三郎氏である。本体は陶器製の立像で高さ130cm 横幅45cm と、小ぶりの陶像ながら姿形がスマートである。 また、陶器製とは思えない位、像の細部まで良く出来ていて完成度が高い。ただし、残念ながら左手上部(本の片側ページ部分)が、何らかの理由で欠けているのと、左足前部分が表面剥離の状態となっている。 <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重小学校の二宮金次郎像』 |
福重小学校・プール竣工記念碑(ふくしげしょうがっこう プール しゅんこう きねんひ) 所在地:福重町、福重小学校 <概略説明> この竣工記念碑の建立年月日は1969(昭和44)年4月19日(注:この日は竣工式開催の日)である。記念碑本体の大きさは高さ60cm、横幅75.5cm、奥行25cm、周囲2m1cmである。本体正面の太文字には「プール竣工記念」と彫ってある。あと、その下部や土台部分の東西南北4面には寄付者名、建設費用、(建設に至る)経過、建設委員名などの碑文がある。このプールは1961(昭和36)年7月、児童の溺死事故が発生しため育友会を中心としてプール建設を協議し、福重地区遺族会や当時の植林管理組合などからの多額の寄付金をもとに、さらに大村市からの建設費用負担もあったので出来たものである。なお参考までにプールの敷地全体は目測ながら南北約30m、東西約35m、本プールは横幅約25m、 縦約12m(長さ25mの6コース)、補助プールは横幅約7.5m、 縦約3.5mである。(掲載日:2017年10月17日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重小学校・プール竣工記念碑』 |
福重小学校・図書ボランティア(ふくしげしょうがっこう としょ ボランティア) 所在地:福重町、福重小学校(図書室) <概略説明> この図書ボランティアの設立年は諸説あるが、2007年頃から活動歴はあるようだ。参加人数については各年度によって違いはあるが3〜5名で運営されている。その活動内容は毎月のように図書室及び蔵書類の整理、季節や行事などに合せて室内の模様変えなど、何らかしている。その活動時間は毎回14時30分頃〜約2時間程度である。また不定期ながら児童へ本の読み聞かせや紙芝居の上演などもある。先の2活動は読書週間(毎年10月27日から11月9日までの2週間)に合わせた取り組みが多い。(掲載日:2021年4月5日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの)『福重小学校・図書ボランティア紹介』 |
福重小学校・立福寺分教場跡(ふくしげしょうがっこう りふくじ ぶんきょうじょうあと) 所在地:立福寺町 <概略説明> 昔は重井田郷(町)や立福寺郷(町)の高台から当時の寿古郷(町)にあった福重小学校本校へ通学するのは遠距離と道路事情から、なかなか困難だった。そのため明治12(1879)年8月より立福寺分教場(分校)が置かれた。ただし、この分教場跡にある記念碑の碑文によると、「明治十二年八月より しばらくで廃止する」となっているので、後で出来た重井田分教場の開校期間(=昭和初期に約8年間)に比べれば、かなり短期間だったと推測される。場所は当時の立福寺郷(現在の立福寺町)だが、生徒の多くはここよりもさらに山間地になる重井田郷(町)と立福寺郷(町)の児童が多かったのではないかと想像される。なお現地には1973(昭和48)年、福重小学校創立百周年に建立された立福寺分教場跡地記念碑が立っている。さらに詳細は不明だが記念碑近くの廃屋付近が分教場の校舎跡と(運動用の)広場跡と推測される。 (掲載日:2016年3月13日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村の史跡説明板・案内板シリーズ」の『福重小学校・立福寺分教場跡』 |
福重青年団史(ふくしげせいねんだんし) 所在地:旧・福重村、(現)福重地区 <概略説明> 福重青年団史は冊子名称通り長崎県大村市福重地区(旧・福重村も含む)に、かつて存在した福重青年団の歴史(主に資料や随想など)を記述したものである。福重青年団の創立経過(概要)は、この団史によると主に次の<>内通りである。<明治43(1910)年、村の先覚者たちが福重農事研究会を組織して研究した。小学校卒より35才までの会員、200名程度で農事研究、珠算、体育(角力=相撲のこと)などの錬磨に努めた。青年会と名称を改めた。大正6(1917)年頃に、その筋の達しによって、従来の青年会の機構を改め、自治制となって、18才から25才までを団員とした。大正7(1918)年4月に福重青年団と改称された> そして、大正9(1919)年、当時の文部・内務両大臣から、長崎県下に、ただ一つの優良青年団として表彰されたことを契機に敬老会が開催された。この敬老会運動会が青年団での年間で最大の行事だったため、このことを中心に団史には書いてある。それ以外の内容として福重村(地区)や青年団の歴史、歴代青年団長の一覧表、郷土の伝統芸能(七つの踊りの紹介) などが記述されている。(掲載日:2017年9月26日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重青年団史』 |
ふくしげ竹灯籠まつり(福重竹灯籠祭り)(ふくしげ たけどうろう まつり) 開催場所:面積の大小はあるが、大村市福重町、妙宣寺の下部周辺の田んぼ <概略説明> この祭りの主催者(団体)名は当初から数回は違うが現在名は「ふくしげ竹灯籠まつり実行委員会」である。初回は2015年で以降毎年11月に開催されていて2019年現在で第4回目である。ただし、2018年のみは他に第100回記念福重地区敬老会という地区全体で取り組まれた大きな記念すべき行事があったので竹灯籠祭りは開催されていない。この祭りは初回から3回目までは2日間だったが2019年は1日間となった。竹灯籠の数は約2万本で妙宣寺境内の開催分を合計すると祭り当日は約2万5千本である。竹灯籠の灯る面積(主に田んぼ、妙宣寺の境内や道路脇)は開催年によって大小はあるが約2町歩(約2000平方メートル=2ha)ほどである。夜の帳(とばり)が降りた時間頃より竹灯籠の周囲は幻想的な雰囲気となる。そのような中で家族参加のスタンプラリーも例年実施されている。また妙宣寺の周囲では「(新鮮野菜などの)じげもん市」や飲食販売もある。(掲載日:2019年11月27日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの(大村歳時記シリーズの)『ふくしげ竹灯籠まつり』 、概要報告ページの一例「2017年11月25日(1日目)第3回ふくしげ竹灯籠まつり」 「2017年11月26日(2日目)第3回ふくしげ竹灯籠まつり」 「2019年11月23日(2日目)第4回ふくしげ竹灯籠まつり」 |
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福重梨(ふくしげなし) 生産地:弥勒寺町、福重町、皆同町、立福寺町など <概略説明> 福重梨の主な品種は幸水(こうすい) 、豊水(ほうすい)、 秋月(あきづき) 、二十世紀(にじゅうせいき) 、新高(にいたか)、 新興(しんこう) などである。収穫や販売時期は各品種によって大きく異なるし、天候によっても左右されるが全体通して8月初旬から10月下旬まである。出荷方法は産地直売方式が全体の90%以上である。味について、福重梨の代表格(全体の約70%を占めている)の豊水を例にとると、果実がずっしりと重く柔らかくてジューシーで一つ食べたらまた食べたくなるほどである。福重梨の歴史は戦前からで当時、米ばかりの生産奨励時代に弥勒寺郷(町)、大庭氏の一戸の農家からスタートしたといわれている。その後、弥勒寺郷(町)を中心に福重地区内の各町内でも広まり、2013年9月現在で17戸の梨園で様々な品種が生産されている。福重梨は「フルーツの里・福重」の代表品種でもある。(掲載日:2017年8月8日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重梨(概要紹介)』 |
ふくしげ夏まつり 開催場所:変遷はあるが2018年は福重小学校の運動場 <概略説明> この祭りの主催は福重商工振興会、企画はふくしげ夏まつり実行委員会である。毎年8月初旬に開催されていて2018年で第35回である。主な祭り内容は2017年を例に挙げると広場の周囲に売店が多数あり、子供参加ゲーム(ラムネ早飲み競争、水風船キャッチなど)、妙宣寺保育園児の万灯行列、福重小学校YOSAKOIソーラン、郡中学校の吹奏楽部演奏、大声大会、開会セレモニー(会長挨拶)、芸能(各ライブ)、おたのしみ福引抽選会などがある。参考までに、この祭りの前身は戦前から開催されていた郡川河川敷での千灯篭祭り(せんとうろうまつり)とも言われている。なお、この祭りは戦前からある福重婦人会歌にも歌われている。(掲載日:2018年8月4日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの(大村歳時記シリーズの)『ふくしげ夏まつり』、福重商工振興会ホームページ |
福重のあゆみ(大人版、中学生版) |
福重のあゆみ(小学生版) <概略説明> 冊子:「福重のあゆみ(小学生版)」の初版は2004年3月1日、第2版は2010年3月、第3版は2015年12月1日に発行された。いずれも元原稿の執筆は増元義雄氏である。サイズは全てA4サイズ(全体で75〜80ページ位)である。内容は「福重のあゆみ(大人版、中学生版)」と同じく長崎県大村市福重地区(旧・福重村)の通史(全時代にわたっての歴史紹介文書)であるが小学生向きに漢字を大幅に減らして、ひらがなに直し文字を大きくしたものである。冊子名の通り、主に福重小学校で読まれ例えば地域(福重地区)を知る総合学習、史跡巡り、郷土史クラブや遠足コースなどの下調べなどに児童や教職員の方で活用されている。なお小学生用の通史の郷土史冊子があり、さらには増版(増刷)が継続されているのは珍しいことでもある。(掲載日:2015年11月1日、第2次掲載:2015年12月24日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重のあゆみ(小学生版)』 |
福重のブドウ(ふくしげのぶどう) 生産地:今富町、弥勒寺町、立福寺町など <概略説明> 福重のブドウの主な品種は巨峰(きょほう、収穫量の約90%)、藤稔(ふじみのり)、シャインマスカットなどである。収穫や販売時期は各品種によって大きく異なるし、天候によっても左右されるが全体通して8月初旬から9月上旬まである。出荷方法は産地直売方式がほとんどである。味について、糖度が高くお客様(消費者)に喜ばれて購入者のリピーターが多い。栽培の歴史について、1961(昭和36)年頃から今富町・冷泉寺集落の農家5戸位から始まったと言われている。その当時の品種は「キャンベル」だったが、その後、同集落で巨峰(きょほう)の栽培をされ徐々に、この品種に変わった。そして、ブドウの栽培は今富町だけでなく弥勒寺町や立福寺町に広まった。福重のブドウは福重梨とともに「フルーツの里・福重」の代表品種でもある。(掲載日:2017年8月13日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重のブドウ』 |
福重地区ウォーク大会(ふくしげちく うぉーく たいかい) 所在地:大村市福重地区 <概略説明>福重地区ウォーク大会の主催は福重地区青少年健全育成協議会である。2023年開催で第20回なので逆算すると、2003年からの行事スタートとなる。このウォーク大会の呼称は別名で例えば「親子ウォーク」「ファミリーウォーク」「ウォークラリー」など様々ある。なお当初の行事は、水田でのドロンコ大会や三世代グラウンドゴルフ大会などもしていた。その後、このウォーク大会に変わった。このウォークが福重地区内の各所を巡って、ドンドン変化している福重地区を見る機会ともなっていて、一番良いのではないかとの評価もあり定着してきた。そのコースはたいていの場合、出発・到着が福重小学校・運動場で、他のウォーキングコースは福重地区の各町内を年度によって違えている。年度によって違うがコース途中でクイズも出題され、正解率の高い順に賞品も出されている。また、福重小学校PTAの秋祭り(バザー)も同時開催で飲食物も楽しめる。この両行事参加は毎回数百名の参加がある。(掲載日:2034年12月9日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの(大村歳時記の)『福重地区親子ウォーク大会』 『2023年11月25日、第20回福重地区ウォーク大会』 |
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福重地区敬老会(ふくしげちく けいろう かい) 所在地:大村市福重地区 |
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福重地区のくんち 所在地:隔年で今富町の大神宮(だいじんぐう)、草場町の松尾神社(まつのおじんじゃ)で開催 <概略説明> 福重地区のくんちは長い歴史があることは分かっているが、開始年の記録がなく不明である。始まった当時は、「福重村のくんち」で頭に各神社名を付けて「秋季例祭」と呼ばれていた。。現在は西暦で奇数年が大神宮、複数年が松尾神社である。現行のくんち内容について各神社の違いはあるが、拝殿内と相撲場での神事、直会(なおらい)、子ども相撲大会などである。戦前(戦後)の一時期ながら浦安の舞の奉納、2005年10月16日、大神宮でのくんちでは今富浮立の奉納がおこなわれたことが分かっている。くんちの相撲大会は、福重青年団があった頃までは大人の競技だった。青年団がなくなった頃から現在のように子ども相撲大会となった。(掲載日:2018年11月3日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村歳時記シリーズ」の『福重地区のくんち』 |
福重地区の精霊流し(ふくしげちく の しょうろうながし) 所在地:大村市寿古町(郡川右岸の河川敷) <概略説明> 福重地区の精霊流しは現在、寿古町、郡川右岸の河川敷で開催されているが、この場所で何年から始まったのか正確には不明である。しかし、(2017年現在でも)既に数十年は経っているかと思われる。主幹は福重地区町内会長会、消防団第11分団、関係諸団体などである。参加数は年によって異なるが450〜650名である。主な内容は福重地区内10町内(一部の町内を除き)から各家、各親戚、各町内で造られた精霊舟や供物などが運び込まれる。その間、道中で各宗派別で若干違うが爆竹、鐘(かね)や団扇太鼓(うちわだいこ)などを鳴らしたり、経典を唱えたりしながら歩く。また、福重地区は広い地域なので自家用車や軽トラックなどに載せて運び込む場合も多い。例年20時前頃より約20分間、妙宣寺の僧侶による読経があり、その時の参加者も各家族、各自で仏壇に線香をあげたり、手を合わせ唱える。その終了後、再度、仏壇に手を合わせたりしながら三々五々、解散となる。(掲載日:2017年9月8日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村歳時記シリーズ」の『福重地区の精霊流し』 |
福重地区みんなのスポーツ大会 主な開催場所:(以前は福重小学校、郡中学校など)現在は総合運動公園(黒丸町) <概略説明> このスポーツ大会は2022年現在で26回の開催実績がある。当初の呼び方は「軽スポーツ大会」(2008年から現在の名称へ変更)と呼称されていた。競技内容も以前はソフトバレーボールやゲートボールもあったが、現在はグラウンドゴルフのみである。参加者は福重地区の者なら子どもから高齢者まで幅広い。(2022年は最年少6歳から最高齢92歳まで平均71.5歳だった) あと地域コミュティーが昔より薄れていく状況下で「参加することに意義あり」「親睦が第一番だ」などの参加者発言に見られる通り、このスポーツ大会は地区住民の交流や懇親の機会としても意義がある。(掲載日:2022年12月17日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページ、「大村歳時記シリーズ」)の 『福重地区みんなのスポーツ大会』、 (大会の数例紹介)「2004年、第9回 軽スポーツ大会」 「2022年、第22回 みんなのスポーツ大会」 |
福重飛行場跡(ふくしげひこうじょうあと) 所在地:今富町、皆同町(現在、飛行場跡に一直線の道路あり) <概略説明> 福重飛行場は1944年10月の大村大空襲などにより海軍航空隊の多くが使えなくなり翌年の1945年春頃までに突貫工事で造られた飛行場である。戦前も少し使用され、戦後もしばらくの間、小型機などが離発着した。福重飛行場について、ある資料には「大村空のおかれていた大村飛行場よりあとにつくられ、草薙部隊の名で知られた第352空の零戦、雷電、月光がここを基地として長崎、佐世保、大村地区の防空にあたったほか、第254、256、652空なども使用したことがあり、第342空の月光隊が進出してきたこともある。滑走路は長さ950m×30m」と書いてある。しかし、当時、実際の飛行場の長さは違っている。また、まだ舗装はされていなかった(農地部分の整地は終了)が、佐奈河内川の東側にも延長計画があり、その整地部分も含めれば飛行場(計画上)の長さは1500m近くになっていた。 <関連詳細ページ>・福重ホームページの「写真が語る福重の歴史や人」の『福重飛行場)』 |
福重飛行場の誘導路橋の基礎部(ふくしげひこうじょう の ゆうどうろきょう の きそぶ) 所在地:今富町、矢次2号橋の上流側(佐奈河内川の川床) <概略説明> まず誘導路とは (デジタル大辞泉から引用すると)「飛行場で滑走路と駐機場との間の飛行機を誘導するための道路」のことである。佐奈河内川に架かっていた誘導路橋の建設年は福重飛行場が1945年5月に一番機が飛んでいるので、その年と同じ頃と思われる。大きさは当時の古写真から推測して長さ約30m、奥行き約10mのように見える。あと現存している基礎部跡(コンクリート)の大きさは2か所とも目測ながら幅1m位、長さ30m位であろう。また1m強の間隔で丸い柱穴がある。主な使用目的は福重飛行場と大村海軍航空隊・第352海軍航空隊の間を飛行機が行き来する誘導路である。同時に飛行場側と川の堤防側に高低差があるため飛行機の向きを変えるためにも使われた可能性がある。なお、この周辺で戦後の記録が残るだけでも最低3回の大きな水害があり激流に遭ったが、この基礎部は川床にありながらも壊れていない頑丈な造りである。(掲載日 2023年1月17日) <関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「福重飛行場の誘導路橋の基礎部」、「福重飛行場」、「大村海軍航空隊」、「第352海軍航空隊」。「佐奈河内川」 |
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福重橋記念碑(ふくしげばし きねんひ) 所在地:沖田町(郡川の堤防道路脇) <概略説明> 長崎街道は郡川では飛び石であった。明治19(1986)年、それまで飛び石だった地点に新たに木造橋が架橋された。現在の国道34号線は、その当時長崎県道だったため県と(当時の)福重村と合同で福重橋も記念碑も造られたものと思われる。碑文裏面の氏名部分には、長崎県、福重村、設計者や大工などの関係者名が彫ってある。記念碑(碑文石)本体の大きさは、高さ約185cm 横幅約90cm 厚さ(最大部分)約34cm、胴囲約237cmである。土台の石垣部分の高さも含めれば250cm近くあるので高く見える。 <関連詳細ページ>・福重ホームページの「大村の石碑や碑文」の『福重橋(木橋)の記念碑と水切り石』 |
福重町の舟つなぎ石(ふくしげまちのふなつなぎいし) 所在地:福重町(現在は市道脇にあり) <概略説明> この舟つなぎ石の元あった場所は現在地よりも南側(写真奥側)方向へ50mくらい先の石走川近くの田んぼ周辺にあった。田畑をトラクターで耕せるように圃場整備(基盤整備)した時に現在地へ移設された。大小3個の石の内、市道側から見て中央奥側の石(高さ80cm、横幅82cm、周囲210cm)が一番、舟つなぎ石らしく見えるが詳細は不明である。圃場整備がおこなわれる以前、この周辺に舟つなぎ石は沢山あったが現在は皆同町にあるものを入れて2ヶ所のみである。この舟つなぎ石があるということは石走川を中心とした周辺の平地一帯は大昔この付近まで海が広がっていたことを示すものである。 <関連詳細ページ>・福重ホームページの『福重町の舟つなぎ石』 |
福重村の招魂碑(ふくしげむら の しょうこんひ) 所在地:今富町、大神宮(境内の東側) |
福重幼稚園(ふくしげ ようちえん) 所在地:大村市福重町326-1 <概略説明> 福重幼稚園は当初、1955(昭和30)年10月に大村市福重地区の託児所として発足した。その翌年1956(昭和31)年4月、大村市立福重幼稚園として認可、設立された。その当時の場所は、現在の福重小学校の南校舎周辺にあった。その後、1979(昭和54)年1月に新園舎が竣工し、現在地に移転した。推測ながら当初から何十年間の園児数は、50人前後いたと思われる。なお2021年4月13日現在で福重幼稚園の全園児数は13名である。この幼稚園は福重小学校の併設園の特色を活かし、例えば運動会を始め同校5年生との交流会など一緒に開催している。この園の目指している幼児像としては、「意欲的に活動する子ども、友だちと協力できる子ども、最後までやりぬく子ども」を掲げている。(掲載日:2021年6月5日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの「福重幼稚園の紹介(もくじ)ページ」 |
福重幼稚園メモリアル(ふくしげ ようちえん めもりある) 所在地:大村市福重町326-1 <概略説明> 大村市立福重幼稚園は2022年度末(2023年3月)で閉園することになった。この園は当初、1955(昭和30)年10月に大村市福重地区の託児所としてつくられ、翌年1956(昭和31)年4月、大村市立福重幼稚園として認可、設立され、2023年まで約67年間続いた。その間の思い出などを振り返って「福重幼稚園メモリアル」が、2023年1月4日から6日まで園舎内で開催され、数多くの展示があった。例えば園児を67年間見守り続けた古い柱時計を始め、懐かしい卒園アルバム、遠足や運動会などの新旧の写真、制服、遊具、福重幼稚園だよりなど沢山あった。この開催期間中には卒園児や保護者などの来場者は3日間で145名で、大村ケーブルテレビからの取材もあった。その来園者からは「この遠足や発表会写真は懐かしい」とか「この制服やバッグは覚えている」「閉園は寂しい」などの感想も多くあった。(掲載日 2023年2月3日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの「2023年1月4日〜6日、福重幼稚園メモリアル開催の概要報告」 「福重幼稚園の歴史」「福重幼稚園の紹介(もくじページ)」 |
福田寅作氏寄附記念碑(ふくだとらさく し きふきねんひ) 所在地:大村市松原本町5番地1、松原小学校 <概略説明> この松原尋常小学校 福田寅作氏寄附記念碑の建立年月は大正5年(1916)5月、建立者は松原村である。ただし、同氏が寄付された年月は明治43年(1910)6月である。碑文によると学校の「基本財産」として(当時の金額で)「壱千圓」(1,000円)」を寄付された。先の「基本財産」という語句から推測すれば、この寄付金は例えば校舎の改築資金や敷地の購入資金にも充当できるような高額であったろうと考えられる。そして、当時の松原村が同氏の好意を顕彰(けんしょう)し、感謝するために本記念碑が建立されたと思われる。記念碑本体(自然石)の大きさは高さ1m72cm、横幅1m3cm、胴囲2m70cmである。 (掲載日:2020年4月4日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『松原尋常小学校 福田寅作氏寄附記念碑』 |
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不動寺跡と不動権現(ふどうじあと と ふどうごんげん) 所在地:今富町(帯取) |
不動明王(ふどうみょうおう) 所在地:弥勒寺町公民館の敷地内(市道の脇) <概略説明> 不動明王の描かれている石は、安山岩で台の上168cmくらいの自然石である。。制作推定は、「鎌倉中期から前期」と言われている。『九州の石塔 上巻』(著者:多田隈豊秋 氏 出版者:西日本文化協会 1975年8月出版)の本に不動明王の記述=「これ程の名碑が、これまで未紹介のまま放置されていたのは寧ろ不思議である。諌早市西ノ郷梵字大旦二尊碑と共に長崎県所在碑塔の双壁といってもいいだらう。」と記述されてあるほど素晴らしい名石碑である。 (掲載日:2007年12月29日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『不動明王』もしくは「仏の里 福重」の『不動明王』 |
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古田山疱瘡所跡(ふるたやま ほうそうしょ あと) 所在地:大村市東大村二丁目 <概略説明> この「古田山疱瘡所跡」については、1997年3月(平成9年3月)、大村市教育委員会によって設置された史跡説明板に次の「」内が書いてある。「市指定史跡 古田山疱瘡所跡 江戸時代後期、文政のころ日本に疱瘡(天然痘)が流行し、大村藩でも その対策に悩まされていました。疱瘡とは顔などに発疹が出て高熱を引き起こす病気の一つでした。 大村藩では、従来、疱瘡の患者が出ると「山揚げ」といって人里離れた小屋に隔離し、食料を与えて養生させる方法をとってきました。また、発疹がでた場所の家族などは、その場所から動くことを禁じるなど他へ病気が伝染しないようにしてきました。 藩医長与俊辰は、文政十二年(一八三〇)藩命により痘家(種痘をおこなう医者)となり、これまで患者の収容所と自分の研究所のあったこの古田山に種痘の施術所、病舎などを建て、日夜疱瘡の根絶に苦心しました。 俊辰は、これまで行われてきた余病併発など、危険性の多い人痘鼻種法を安全性の高い腕種法に改め、さらに嘉永ニ年(一八四九)、長崎に来日していたオランダ商館長モトケより牛痘を手に入れ、牛痘接種による疱瘡の予防に成功した。 現在、疱瘡所の跡は残っていません。俊辰の墓は、長崎街道沿いの玖島の吹上墓地にあります。俊辰の孫は、近代医療制度の基礎を築いた長与専斎がいます。 平成九年三月 大村市教育委員会>(掲載日:2024年12月16日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『古田山疱瘡所跡』 |
ふれあい相撲大会(ふれあい すもう たいかい) 試合会場:各小学校の土俵や体育館 <概略説明> この相撲大会は大村市立小学校(合計15校の内)6校(2020年現在)「西大村小学校、東大村小学校、萱瀬小学校、黒木小学校、福重小学校、松原小学校」のPTA・育友会主催で開催されている児童の取組である。毎年度ごと2校の主催(共催)で、場所は1年ごとに6校の順送りで開催されている。この大会の経過(歴史)について、スタート当初の資料なきため正確には不明ながら現在進行中の開催回数から逆算して1988(昭和63)が初回のようだ。この大会は通常、相撲場での試合だが、雨の場合は体育館でもおこなわれている。この大会について大村相撲協会も行司・審判など全面協力されている。なお参考までに先の6校には土俵(相撲場)があるだけでなく、1校を除き明治時代初期に開校した歴史と伝統のある小学校ばかりでもある。この大会の競技内容は団体戦と個人戦がある。参加児童数は年度によって当然変わるが、100数十名〜200名位である。毎回の試合ごとに、どこのPTA・保護者・地域などから温かい拍手・声援が児童へおくられているが、特に団体戦の上位戦では熱心な応援がある。また例えば会場になった土俵や優勝カップなどが新調された場合、開会式で紹介もされていた。あと、来賓、主催者挨拶で異口同音に「格闘技ゆえに勝ち負けはある。しかし、それ以上に大切なのは一人では競技できないので相手を尊敬し、礼儀を持って取り組んで、友達を増やして欲しい」と強調されている。(初回掲載日:2021年2月21日、2次掲載日:2024年7月15日) <関連詳細ページ>・福重ホームページの『ふれあい相撲大会』 |
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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。 |
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