最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
大村辞典
はじめに
もくじ
大村辞典 と”の項目

と”の項目
土井の浦窯跡(どいのうらかまあと) 所在地:大村市陰平町
<概略説明> この史跡は江戸時代、陶器類をつくった連房式の登り窯の跡である。(大村)郷村記にには「延宝4年(1676)、大村城下本町の伊佐衛門が土井の浦に七つの燃焼室をもつ窯を開き、茶碗や甕(かめ)を焼いた」と記述されている。この場所は現在の大村市廃棄物処理場下手の山中周辺で海岸近くである。窯が使われた当時の交通手段は主に海路だったと推測されている。昭和63年に発見されたのは登り窯二基で、古い方の窯は新しい窯の建設の際に壊され、現在一部を残すのみとなっている。しかし、新しい窯跡は天井部の近くまで残っており、その状態の良さと造られた年代が記録から分かる貴重な窯跡として注目されている。
(掲載日:2015年5月23日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの史跡説明板シリーズの)
土井の浦窯跡

東光寺跡(とうこうじ あと) 所在地:大村市松原一丁目(長崎県営バス停の東光寺から10分位)
<概略説明> この寺院は元々、旧・福重村草場郷、字(あざ)東光寺にあった。創建は不明ながら「紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)」には既に久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に寺院名が記述されているので、それよりは古いと言われている。寺領130石余りを有したと伝えられ、郡七山の中でも最も大きな寺院とも言われている。境内には正和5年(1316)と銘の入った石塔の一部があり、この年号は大村地方で見つかっている金石文では最も古いものである。ほかに「三伯(さんぱく)」」と彫られた大きな石などが残されており、郡七山十坊の中でも当時のものが残っている貴重な史跡として、1969(昭和44)年に大村市指定史跡となっている。
(掲載日:2016年8月1日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
東光寺跡』 、『(史跡案内標柱・説明板)東光寺跡

東光寺の滑石製平安仏(とうこうじ の かっせきせい へいあんぶつ) 所在地:大村市松原i一丁目(個人宅)
  <概略説明> この東光寺の滑石製平安仏(単体仏)は所有者の話しによると、「元は東光寺跡周辺の山から運んで来て、昔から仏壇で祀ってきた」とのことである。石材は名称通り滑石で、建立年代は末法思想流行時(平安末期頃)に経筒が収められていた経塚の上に載っていたといわれているので同年代である。この石仏は仏像専門家の竹下氏の論文によると「弥勒菩薩像である可能性が高い」 「現状は照りのある黒色を呈していて、護摩等によっていぶされたかのような印象を与える」などが記述されている。全体の大きさは高さ23cm、横幅14.5cmである。(掲載日:2020年5月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『東光寺の滑石製平安仏(単体仏)
 、
東光寺跡 、『(史跡案内標柱・説明板)東光寺跡

--準備中-

唐泉寺跡(とうせんじ あと) 所在地:大村市福重町(福重町公民館もしくは、その南側の民家周辺)
<概略説明> この寺院跡周辺の福重町公民館敷地内(南側)には薬師如来(地元では「薬師さん」と呼称されている)がある。大村郷村記に唐泉寺としては記述されていないが、同寺院で同じ場所のこととして薬師如来が書いてあるとの説が地元では有力である。この説が正しければ、唐泉寺の創建は応徳2年(1085年)である。「紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)」によると、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に唐泉寺の住職春輝が提唱して14か寺の僧侶が集まり宗論が行われた所でもある。大村郷村記によれば天正年間(1573〜1592)に耶蘇(やそ=キリシタン)ために(寺院の焼き打ちをおこなったので)灰塵(はいじん=灰とチリ)になった。その後、 寛永13年(1636)より新たに仏体(仏像)を調べて堂(建物)が再建された。
(掲載日:2016年9月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
唐泉寺跡

塔の峰城跡(とうのみねじょうあと) 標高:40m 所在地:大村市陰平町(南部地区ライスセンター近く)
<概略説明> 塔の峰城は鈴田地区内の城跡では、最も南西部にある
。この位置関係は、もしも諫早の軍勢が三浦海岸沿いで攻めてきた場合、鈴田川を背にして戦えば最後の防御ラインなる所だった。その防御上の意味で、この城は重要な役割があったと思われる。 江戸時代に編纂された(大村)郷村記によれば、朝長右衛門大夫純織が諫早勢に防戦し打ち死にした城とも言われている。城の遺構は自然の地形をうまく利用して造られ、主曲輪、切岸、帯曲輪が配置され、さらに土塁や堀切もあった可能性がある。(初回掲載日:2015年3月9日、第二次掲載日:2019年4月15日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
塔の峰城』  「大村の史跡説明板シリーズ」の「塔の峰城跡

読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)(どきょうせんかいきねんせきとう よしゅひ ぎゃくしゅひ) 所在地:大村市三城町 (三城城跡)
<概略説明> この石塔は経典を一千回唱えたことを記念して月山桂公座元禅師が預修碑(よしゅひ=生前供養の碑)として建てたものである。建立年は天文19年(1550) 陰暦4月吉日である。碑文石(本体)の大きさは高さ45cm、横幅29cm、胴囲117cmで、全体の大きさは高さ80cm、横幅33cmである。経典を千回も読経したことや、その記念も兼ねての生前供養塔=預修碑(逆修碑)を建立した例は大村市内でも長崎県内でも数少ないか、ないに等しいかもしれない。その意味からすれば戦国時代の読経千回記念石塔が現在も存在すること自体、貴重ともいえる。
(掲載日:2017年6月3日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)読経千回記念石塔(預修碑、逆修碑)

富の原開墾記念碑(とみのはら かいこん きねんひ) 所在地:大村市 富の原2丁目(公民館の敷地)
<概略説明> 大村市富の原1丁目、2丁目や、その周辺の町を含めて戦前、大村海軍航空隊があった。戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)が、その土地を接収した。その後、竹松地区在住の原口富一組合長を中心とした5人の竹松農地組合が、占領軍(アメリカ軍)のスターンズ大尉に元の大村海軍航空隊の土地返還を要望した。その結果、大尉から回答があり快く許可を得た。その後、いったん許可取り消しなどもあったが、再度の土地返還が1947年5月に決定(認可)された。その後、土地の配分は旧土地関係者(所有者、地主)6割、海外からの引き揚げ者2割、一般2割と決定した。そして開墾用のトラクター2台で同年7月から開墾を開始し11月に完了した。返還された土地(元・大村海軍航空隊の)敷地全体は約175町歩=約53万坪=約174万平方メートルであった。戦後の混乱期、原口組合長や竹松農地組合は一から立ち上がり、様々な困難な交渉を経て、土地返還に成功し、さらには開墾して肥沃な農地に変え食糧増産に寄与された努力や功績は大村の歴史上からも特筆、称賛すべきことである。なお、この土地返還交渉で先頭に立って奮闘された原口富一氏の労苦と功績を称えて同氏の「富」の一文字から、この周辺の地名を「富の原」の名称にされた。記念碑本体のみの大きさは高さ126cm、横幅61cm、奥行34cm、胴囲183cmである。(掲載日:2021年2月12日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)富の原開墾記念碑』 『原口富一』 『大村海軍航空隊』 『第三五二海軍航空隊(三五二空、草薙部隊)

鳥甲岳(とりかぶとだけ) 標高:769m 所在地:大村市中岳町南川内と黒木町の境周辺
<概略説明> 
鳥甲岳(とりかぶとだけ)の由来は黒木町から見た山容が、鶏の鶏冠(とさか)に似ているからである。ただし、この珍しい形をした山容はどこからでも見える訳ではなく、黒木町からだけである。なお、右写真にある最高地点は山頂ではなく、もっと数百メートル奥に行った所が三角点もある山頂である。登山ルートは主に黒木町にある郡川砂防公園近くからと、中岳町南川内にある久良原林道脇から登るコースがある。尾根伝いの標高約750m地点には鳥甲摩利支天宮(とりかぶとまりしてんぐう)が、鎮座している。 (掲載日:2011年10月5日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮

鳥甲城(とりかぶと じょう) 所在地:大村市中岳町南川内と黒木町の境周辺にある鳥甲岳の尾根(標高:750m付近)
<概略説明> 鳥甲摩利支天宮の境内及びその周辺が鳥甲城址である。場所は鳥甲岳(769m)の頂上から連なる尾根伝いの東側で三方は険しい谷があるが、そこだけは真っ平らで横幅7m、奥行き18mあり、やや傾斜面を入れると奥行き全体では30m弱である。ここは現在、日本一高い標高の城と言われている岩村城(717m、岐阜県恵那市岩村町)よりも約33m高い所にある。この地で戦国時代、 大村純忠の三男である大村右馬之助純直(おおむら うまのすけ すみなお)が剣術修行をおこない近くの大きな岩の間に太刀を納めたことから鳥甲摩利支天宮ができたと言われている。(掲載日:2013年1月22日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)鳥甲城鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮鳥甲摩利支天宮の石碑

鳥甲摩利支天宮(とりかぶと まりしてんぐう) 所在地:大村市中岳町南川内と黒木町の境周辺にある鳥甲岳の尾根(標高:750m付近)
<概略説明> 鳥甲岳(とりかぶとだけ、769m)の頂上から連なる尾根伝いに東方向に行くと奥行き18m、横幅7mの平地がある。そこが境内で、本宮はさらに数10m下った所に鎮座している。摩利支天は女神で護身・得財・勝利などをつかさどるされ、一般には”武士の神様”、”戦の神様”、”勝利の神様”などとも呼ばれている。起源は大村純忠の三男である大村右馬之助純直(おおむら うまのすけ すみなお)が剣術修行をおこない近くの大きな岩の間に太刀を納めたことからと言われている。 (掲載日:2012年3月15日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮鳥甲摩利支天宮の石碑

鳥甲摩利支天宮の石碑(とりかぶと まりしてんぐう の せきひ 所在地:大村市中岳町南川内と黒木町の境周辺(鳥甲摩利支天宮の境内)
<概略説明> 鳥甲摩利支天宮の本宮は大きな岩がひさしみたいになった下側にある。この石碑は本宮から数十メートル離れた尾根上の広い所にある。なぜ近い距離に本宮があるにも関わらず、このような石碑があるかという疑問である。それは推測ながら大勢で参詣した場合、本宮が岩にあるので狭いため広い場所が必要だったと思われる。石碑と土台含めた全体の高さは約150cmである。石碑部分のみでは高さ約90cm、横幅約70cm 、胴囲約160cmである。正面の石碑中央部に「鳥甲摩利支天宮」と大きな文字で彫ってある。裏面には「昭和御大典記念建之」の文字がある。この即位の礼は1928年(昭和3年)11月10日に挙行されているので、この当時に石碑が建立されたということである。建立者は氏名が彫ってある3名とも当時の萱瀬村(現在の大村市萱瀬地区)関係者である。 (掲載日:2017年1月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)「鳥甲摩利支天宮の石碑」の『鳥甲摩利支天宮の石碑

鳥甲摩利支天宮の奉献碑(とりかぶと まりしてんぐう の ほうけんひ 所在地:大村市中岳町南川内と黒木町の境周辺(鳥甲摩利支天宮の境内)
<概略説明> 奉献碑(奉献塔)は寺社の改築や主だった諸施設の新設時その記念碑的な目的で建立されている場合もある。これには表面に「奉献、開田左衛門」のみの碑文しかない。そのため何の新設あるいは改築時の記念か、この文字だけでは不明である。鳥甲摩利支天宮の境内にある他の石碑や石塔には建立年も建立者もあるので、他の何かの改築時などに建立されたのであろう。全体の高さは約70cmである。石碑(碑文の彫ってある中央部)の高さは約43cm、胴囲は約62cmである。 (掲載日:2017年1月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)「鳥甲摩利支天宮の石碑」の『奉献碑

鳥越・伊理宇の合戦跡(とりごえ・いりゅうのかっせんあと) 所在地:大村市今富町と立福寺町の町境周辺
<概略説明> 鳥越・伊理宇の合戦は永禄9年(1566年)に戦われた。佐賀・武雄の後藤貴明の軍が、陣を張ったのが野岳だったため(大村)郷村記には「野岳の陣」と記述されている。戦闘がおこなわれたのは今富の一番高い丘(右側写真参照)付近から立福寺側にかけての地域で戦死者も出た。この周辺には今でも今富の侍の墓がある。戦の結果は大村純忠の軍が後藤貴明の軍を撃退した。(掲載日:2012年6月9日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)鳥越・伊理宇の合戦跡今富の侍の墓

--準備中--

--準備中--

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

この大村辞典の目次ページに戻る
大村辞典
はじめに
もくじ
関連ページ 「お殿様の偽装」ページ 「大村の歴史」ページ
最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク