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大村辞典
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大村辞典 ”さ”の項目

”さ”の項目

西光寺山城(さいこうじやまじょうじょう) 所在地:大村市小川内町(おがわちまち)
<概略説明> この西光寺山城のあった場所は江戸時代に編纂された(大村)郷村記から考えれば字(あざ)の「西光寺山」にあったと思われる。この字や城跡推定場所は現在も鈴田川の北側にある丘陵部であることが分かる。しかし、城遺構が工事などで壊されたためか、あるいは別に原因があるのか城跡(の場所)が特定できていない。城の構え(大きさ)は(大村)郷村記を引用すると(現代語訳で)「東西約29m、南北約62mであり、広さにすれば約642平方メートルである」と記されている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)西光寺山城

済福寺跡(さいふくじあと) 所在地:大村市皆同町(郡川に架かる福重橋の右岸側周辺)
<概略説明>
済福寺の創建は不明である。場所は大村郷村記によれば「川端(川のほとり)にあり」と記述されている。地元伝承では場所について二説あり、いずれも現在、郡川にかかる福重橋(通称「郡橋」)の右岸側周辺である。一説目は国道34号線の上側(北側)にある民家周辺、二説目は同じく下側(南側)にある畑、日蓮宗の記念碑や藪のある周辺である。二説とも『おおむらの史記』(大村史談会青年部、1982年09月発行)18ページの地図=「郡地方の寺院群」に図示されている場所とも一致している。この寺院跡周辺を流れる農業用水路に「才福寺井手」があるが、この由来は本寺院名称から来ている。なお、福重小学校に所蔵されている(2冊のアルバム式)「福重の史跡(1)、(2)」には日蓮宗の記念碑周辺が済福寺跡とも記述されている。(掲載日:2017年6月13日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)済福寺跡

済福寺堰(済福寺井手)(さいふくじせき、さいふくじいで) 所在地:大村市皆同町(郡川の堰から取水し皆同町と寿古町の用水路に流れる)
<概略説明>この堰(せき)と井手(いで)は郡川にある農業用水を取水するための井堰(いせき)と、用水路のことである。名称について済福寺堰・済福寺井手=西福寺井手=才福寺井手との表記も各記録にある。堰の大きさは目測ながら高さ約1m、長さが約35mである。郡川の右岸(皆同町側)に取水口がある。そこから井手(用水路)を通じて皆同町や寿古町の耕作地(田畑)に水が供給されている。江戸時代の(大村)郷村記によれば、この井手から供給されている耕作地(水田)面積は約70,145平方メートルである。(掲載日:2021年7月17日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『済福寺堰(済福寺井手)

坂口館(さかぐちやかた) 公園名称:大村純忠史跡公園  所在地:大村市荒瀬町
<概略説明> 坂口館(現在の大村純忠史跡公園)は武家屋敷として当初からの規模や広さなどの詳細について不明である。古くは大村家の重臣で庄頼甫( しょうよりすけ)の屋敷だったと伝えられている。その後、佐賀の龍造寺隆信の圧迫を 受け、大村領主を引退した大村純忠が晩年に隠居した所である。その期間は天正13(1585)〜天正15(1587)年5月18日である。その後も大村家関係の屋敷として使われたが、江戸時代さらには近代になって所有者は何回も変わったようである。坂口館は大村家・大村純忠の隠居所に相応しい、かなり規模の大きい屋敷だったと思われる。しかし、近代になり様々な工事関係や高速道路建設などにより、当初からの敷地を特定することは出来なくなった。現在では、どんな干ばつ時でも枯れることはない山近くの「舘の川(たちのかわ)」と言う清水(泉)と周辺にある石垣、石畳だけが、当時の武家屋敷をしのばせるものである。
(掲載日:2013年3月20日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『坂口館(大村純忠史跡公園)

佐奈河内川(さながわちがわ) 別称:佐奈川内川 所在地:大村市重井田町、野田町、立福寺町、今富町
<概略説明> 佐奈河内川(さながわちがわ)は、郡川の支流で長さ2.924kmある。水源は重井田町の郡岳に発し、重井田町、野田町、立福寺町の境と今富町を流れ、郡川本流と合流する。また、
下流域の今富町で佐奈河内川は、別の支流にあたる野田川の2本の流れとも合流している。この佐奈河内川と同じ地名=字(あざ)「佐奈河内(さながわち)」が、立福寺町にある。別称では「佐奈川内川」とも書かれている。(掲載日:2006年7月5日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)佐奈河内川

定め石(さだめいし) 所在地:大村市重井田町、佐奈河内川(さながわちがわ、佐奈川内川)の上流部
<概略説明> 佐奈河内川の上流部の水は、主に二つに分けて流されている。一つは重井田町及びそこから野田町、立福寺町、今富町の水田などである。二つ目は、井手(用水路)により野岳湖に流されている。この水の取水について江戸時代の寛保二年(1742年)、自然石に刻まれた約束事ある。それを定め石と言う。彫られた文字の解釈などを書けば長くなるので下記から詳細は、ご覧願いたい。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)定石

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三社大権現(さんしゃだいごんげん) 所在地:大村市武留路町
<概略説明> 三社大権現は武留路の鎮守の神様で、江戸時代の「郷村記」には「不動様と石三つを祭る」と記述されている。戦国時代にキリシタンにより壊された。しかし、明暦3年(1657)の郡崩れの後、民心の異常な動揺に対処するため、時の藩主大村純長は寺社を復興した。武留路では万治2年(1659)に三社大権現、寛文3年(1663)に薬師堂が建てられた。沖灘権現の建立年代もほぼ同じ時期と思われる。再建当時、三つの神社は別々の所にあり、三社大権現はもっと山手だったが、鳥居の年号から享保3年(1718)に現在地に移転されたと考えられる。薬師堂は前田氏の所に沖灘権現は沖灘の地に再建された。三社大権現の三つの石は、昔の権現宮のものといわれている。明治以降、三つの神社は三社大権現の地に一緒に祭られ、現在の社は昭和63年(1988)12月に改築されたものである。(掲載日:2021年5月11日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの史跡説明板の)『三社大権現

三城城(さんじょうじょう) 所在地:大村市三城町
<概略説明> 大村純忠が永禄7年(1564)に築城し大村家の居城とした城である。標高約37mの丘陵に築かれた複数の広大な曲輪を配置する戦国期大村氏最大の平山城である。 『大村郷村記』には「追手(大手)は西に向き、搦手は北に向く。本丸は2,400坪(約8,000平方メートル)、二之郭一、 500坪(約5,000平方メートル)、三之郭600坪(約2,000平方メートル)、北之出郭500坪(約1,700平方メートル)」 とある。元亀(げんき)3年(1572)に「三城七騎こもり」戦が起きた。この時、武雄の後藤氏、諌早の西郷氏、平戸の松浦氏の連合軍約1,50 0名が突然、三城城を囲み攻撃をした。しかし、城にいた7人の武将と女、子ども合わせて70余名の大奮闘と富永又助の活躍、郡村と萱瀬村の侍の決死の援助により大勝利をおさめたと伝えられている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)三城城

三体仏(さんたいぶつ) 所在地:大村市弥勒寺町、熊野権現敷地内(公民館敷地横)
<概略説明> 高さ約34cm、 幅約35cmである。 造立年代などは、不詳である。 
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)三体仏
三伯(さんぱく) 所在地:大村市松原一丁目(東光寺跡)
<概略説明> この石塔(石碑)の自然石の大きさは高さ約146cm、横幅約135cm、周囲290cmである。特徴として「三伯」との大きな文字が彫ってある。(1965年3月31日、長崎県教育委員会発行の)「長崎県文化財調査報告書第3集 昭和39年度 民俗資料調査報告書」(270ページ)に「馬の神 東光寺内 三伯(陰刻)の文字ある」とある。ただし、この説は建立当初の、元々の意味のあった石塔(石碑)が後年、本来の由緒そのものが分からなくなって、いつの年代か不明ながら「馬の神」などと地元で呼ばれてきた可能性も推測される。仮に「馬の神」だったとしても東光寺(跡)という仏教寺院の場所に「馬の神」などの動物類の石塔などがあること自体、大村では少なく最初からここにあったのか疑問もある。大きな石なので、むしろ「弥勒寺の陽林」と同じように東光寺関係の「(住職か)誰かの墓碑ではないか?」との説も考えられる。いずれにしても基礎的史料(資料)がないため正確には不明と言える。<注:(下記リンク先通り)漢字二文字が彫ってあり、詳細な由緒などが現在では不明な石塔が他にも「陽林」、「道看」、「陽白」などがある> 
(掲載日:2016年12月13日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?>ページの
三伯

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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