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大村辞典
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大村辞典 ま”の項目

ま”の項目
馬込水源(まごめすいげん) 所在地:大村市草場町
<概略説明> この馬込水源には現在、水神様の石祠がある。ここはいくら日照りの時でも枯れたことのない清水が、こんこんと湧き出ている。この馬込周辺は肥前国時代に古代の道と駅(新分駅=にきた、にいきた)があったと推定されている場所である。詳細は下記からご覧下さい。(掲載日:2008年10月8日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『馬込水源


馬込の溶岩流跡(まごめのようがんりゅうあと) 所在地:大村市草場町
<概略説明> この溶岩流跡は馬込水源の下流の川(通称:馬込川=まごめがわ)にある。火山から流れ出した溶岩がそのまま固まったものと思われる。大村市内にはいくつも似たような溶岩跡が見られるが、原町と荒瀬町の境界で郡川に架かる石場橋の上流付近 の川底や川岸当たりの岩盤とともに、この馬込の溶岩流跡は良く分かる場所である。また市道脇から10段もない階段で直ぐに川床に行ける便利な所でもある。川幅自体が5mもないような川床なので細長く感じるが溶岩が流れ下った迫力は随所で確認できる。また、馬込水源からの綺麗な水が岩肌を流れている様は普通の川では見られない光景である。(掲載日:2013年6月14日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『馬込の溶岩流跡

松尾神社(まつのおじんじゃ) 所在地:大村市草場町
<概略説明> 漢字では松尾神社だが読み方は「まつのお じんじゃ」である。大村湾周辺や平野部が一望できる見晴らしの良い所にある。創建当初、松尾権現として1548(天文17)年大村純前が、現在地より北の方に建てた。(この推定場所は「戦国時代にあった松尾権現の推定位置について」を参照) この神社は「酒の神様」でもあり重井田町の御手水の滝(おちょうずのたき)=通称「裏見の滝」から水を汲み酒を造っていたとの古記録がある。 詳細は下記からご覧下さい。(掲載日:2011年10月9日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『松尾神社

松尾神社の鳥居(まつのおじんじゃ の とりい) 所在地:大村市草場町
<概略説明> この鳥居は松尾神社(まつのお じんじゃ)の南西側にある。鳥居全体の大きさは高さ250cm、横幅380cm、柱の胴囲133cmである。額束(銘板)と柱の両方に次の「」内碑文が彫られている。 額束(銘板)=「松尾神社」 、左(西)側の柱=「奉再興鳥居壹基氏子中」、右(東)側の柱=「文政八年乙酉十二月如意日」  この「」内を現代語訳で続けて読めば< 松尾神社 (松尾神社の)氏子(うじこ)で鳥居一基を再興し(再建し)、奉納する。(この鳥居の建立年は)文政8(1825)年乙酉(きのととり、いつゆう)12月如意日(縁起の良い日)である>となる。(掲載日:2014年10月10日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)松尾神社の鳥居

松尾神社(まつのおじんじゃ)の元権現の石祠  所在地:大村市草場町(松尾神社の境内)
<概略説明> この場所は松尾神社の拝殿南端から南南東側へ約5mの所である。現在そこに社と石祠がある。石祠全体の大きさは高さ118cm、横幅68cm、奥行55cmである。地元で元権現と呼ばれている名称は現在の松尾神社の前身である元の松尾権現と言う意味である。しかし、実物の石祠の碑文には 「草場郷中 建立 松尾宮 大正七年 旧九月廿八日」<現代語訳:松尾宮(の石祠を) 草場郷中(町内)で、大正7(1918)年、旧9月28日に建立した>と彫ってある。碑文の「松尾宮」の呼称は権現の呼び名ではなく、(旧の)松尾神社とも解釈できる。なぜ、このようになっているのかの由来は地元でも不明とのことである。なお地元での参詣の順番は元権現が先で、次に現在の松尾神社と言う。(掲載日:2018年3月22日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『(松尾神社の)元権現の石祠

松原神楽(まつばら かぐら) 所在地:大村市松原地区
<概略説明> この松原神楽は松原宿活性化協議会によって、2021年から2022年現在で2回上演されている神楽の総称である。年別には2021年が<松原神楽「深澤儀太夫勝清 鯨獲り」(まつばら かぐら ふかざわ ぎだいゆう かつきよ くじらとり)>、2022年が<深澤儀太夫勝清 野岳ため池造り」(まつばら かぐら ふかざわ ぎだいゆう かつきよ のだけ ためいけ つくり)>との上演名称が付いている。 (上演内容は各年の名称通りでもあるし、下記の年別の上演実績ページリンク先も紹介しているので、この辞典項目では省略) また各年によって上演者(舞の演技者、横笛や太鼓などの楽器奏者など)の人数は変わっているが、15名から20名位である。プラス指導者(各担当の先生)や援助者(着付け、準備、後片付けなど)なども約15名いる。なお、上演は松原おくんちの日であり、「松原神楽」は松原八幡神社へ奉納されている。
・上演実績(2022年11月現在) 
2021年11月21日、松原神楽(松原くんち)上演(概要報告) 神楽名称は「〈松原神楽「深澤儀太夫勝清 鯨獲り
2022年11月19日、松原神楽(松原くんち)上演(概要報告) 神楽名称は「〈松原神楽「深澤儀太夫勝清 野岳大ため池造り

<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「大村歳時記」の「松原神楽」、「松原神楽奉納記念 手ぬぐい

松原くんち(まつばら くんち) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> 松原くんちの歴史で最初の開催はいつなのか正確な年代は不明ながら古くからあることは確かで、大村市内のくんち(秋祭り)では最古の歴史と思われる。以前は毎年11月15日を中心とした3日間ほど開催されていたが、近年は土・日曜日などの休日を利用した日に2日間おこなわれている。内容について当然、神事は大昔から継続されている。しかし、境内や神社周辺の市道などでおこなわれている演目や行事は長年継続中の相撲大会などもあるが、毎年様々な工夫をしながら年ごとに改善あるいは新設されているものもある。さらに松原地区の郷土芸のである松原女相撲甚句や野岳蛇踊りなどが披露される年もある。また、松原くんちは神社周辺の道や駐車場での産地直売の出店、陶器・木工製品や食べ物のなど屋台が多いのも特徴である。11月中旬頃の開催日の関係から神社系の大村での秋祭りとしては締めくくりになっている。(掲載日:2014年12月5日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)松原くんち

松原庄屋跡(まつばら しょうや あと) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> ここの現地に立てられている史跡説明板によると現在、大村市立松原小学校の敷地は主に江戸時代まで松原村の庄屋があった所である。庄屋とは、江戸時代の村役人で年貢を集めたり、村人の戸籍の届けをまとめ、藩から村に命じられた道や橋の修理の指揮、藩からの連絡事項の伝達など、村のまとめ役で村の百姓の中から任命されていた。庄屋の制度は、明治五年(1872)に全国で廃止され、その敷地は先の通り松原小学校となった。ただし、この庄屋跡よりも学校敷地は拡張されている。なお当時から、この庄屋の東側には現在の長さで約60mの石垣があり、その横には旧・長崎街道が通っている。ここの風景は今なお往時の姿を留め、大村市内では庄屋跡や長崎街道跡が分かりやすい所でもある。(掲載日:2021年3月21日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)「史跡説明板シリーズ」の松原庄屋跡

松原宿ひな祭り(まつばらしゅく ひなまつり) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> 松原宿ひな祭りは毎年春季(一例:祭り期間は2023の場合、2月25日から3月26日の毎週土曜日、日曜日、祝日)に開催されている。当然、その年によって開催期間や日時の違いがある。開催回数は2023年現在で第18回目であろう。開催場所は大村市松原本町77−1にある旧松屋旅館で、祭り主催者は松原宿活性化協議会である。主な内容は松原地区内あるいは大村市内外から提供されてきた雛(ひな)人形などが飾ってあり、これが中心である。あと開催年によっては、ひな祭り期間中に合わせた諸行事で、例えば「松原宿再発見ウォーク」などもあった。(掲載日:2023年2月222日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの「大村歳時記」の『松原宿ひな祭り』,、(史跡説明板シリーズの)旧松屋旅館

松原宿・寺子屋塾(まつばらしゅく てらこやじゅく) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> この長崎街道・松原宿・寺子屋塾の主催は、大村市松原地区の地域団体である松原宿活性化協議会である。この協議会は年間多くの取り組みがある中で、松原宿・寺子屋塾は松原小学校の児童に一番人気の行事である。塾の開催は2014年から始まっており、その実施時期は夏休みで各年によって違う場合もあるが、3日間程度である。その場所は旧松屋旅館を拠点に松原地区住民センターや他の場所も含めてある。また、新型コロナ対策でオンライン方式の年もある。塾の内容は長崎大学などの大学生、大村市や松原地区内外の講師が、例えば「科学について」「料理やケーキ作り」「竹細工」など、他にも実に様々な講座が開催されている。(掲載日:2022年6月25日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)(大村歳時記シリーズの)長崎街道・松原宿・寺子屋塾」、「2019年8月19日、長崎街道・松原宿「寺子屋塾」開校式(概要報告)」  「2922年8月17日、長崎街道・松原宿「寺子屋塾」開校式(概要報告)

松原庄屋跡(まつばら しょうや あと) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> ここの現地に立てられている史跡説明板によると現在、大村市立松原小学校の敷地は主に江戸時代まで松原村の庄屋があった所である。庄屋とは、江戸時代の村役人で年貢を集めたり、村人の戸籍の届けをまとめ、藩から村に命じられた道や橋の修理の指揮、藩からの連絡事項の伝達など、村のまとめ役で村の百姓の中から任命されていた。庄屋の制度は、明治五年(1872)に全国で廃止され、その敷地は先の通り松原小学校となった。ただし、この庄屋跡よりも学校敷地は拡張されている。なお当時から、この庄屋の東側には現在の長さで約60mの石垣があり、その横には旧・長崎街道が通っている。ここの風景は今なお往時の姿を留め、大村市内では庄屋跡や長崎街道跡が分かりやすい所でもある。(掲載日:2021年3月21日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)「史跡説明板シリーズ」の松原庄屋跡

松原の救護列車の碑<未来への郵便屋さん>(まつばらのきゅうごれっしゃのひ ) 所在地:大村市松原本町、松原小学校
<概略説明> この記念碑は大村市立松原小学校の校舎(L字型の長辺)前の花壇にある。この碑の建立は松原の救護列車を伝える会が中心となり武蔵野美術大学・旅するムサビプロジェクトが協力され、松原小学校の児童が制作された。1945(昭和20)年8月9日、長崎原爆での被害者が諫早、大村、佐世保の各市へ(当時の)国鉄で運ばれ松原駅にも、その救護列車が着き松原小学校に運ばれた。そして被爆者へ松原地区(福重地区の人も含む)の方々が言うにいえないほどの献身的な手当と看護をされた。本碑は長崎原爆70周年の2015(平成27)年12月24日に竣工されている。本体の大きさは高さ120cm、横幅218cmである。土台に本碑の名称板と建立趣旨などが書かれた2枚のプレートがある。その後半部分には次の<>内の文字がある。< (前略) ここ松原小学校(まつばらしょうがっこう)では昭和(しょうわ)20年(ねん)8月(がつ)9日(ここのか)、原子爆弾(げんしばくだん)による被災者者(ひさいしゃ)が長崎(ながさき)から救護列車(きゅうごれっしゃ)で運(はこ)ばれ、治療(ちりょう)を受(う)けた。原爆(げんばく)で苦(くる)しんだ人(ひと)たち、松原(まつばら)で救護(きゅうご)に当(あ)たった人(ひと)たちの思(おも)いを知(し)り、感(かん)じだことを形(かたち)にして大(おお)きな鳥(とり)の郵便屋(ゆうびんや)さんにのせ、未来(みらい)へ届(とど)けていく。  平成(へいせい)27年(ねん)12月(がつ)24日(か) 竣工(しゅんこう) > (掲載日:2020年4月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)松原の救護列車の碑<未来の郵便屋さん>

松原小学校 創立百周年記念碑(まつばらしょうがっこう そうりつ100しゅうねんきねんひ) 所在地:大村市松原本町、松原小学校
<概略説明> 1872(明治5)年8月に当時の松原村と福重村が共同して、福重村の寿古郷(現在の大村市寿古町)に福重小学校を創立した。そして翌年の1873(明治6)年10月7日に福重村(福重小学校)から分離独立して松原小学校を現在地に創立した。この記念碑は先の歴史からして創立100年を経たので1973(昭和48)年3月11日に、それを祝い建立されたものである。碑の本体部には「創立百周年記念碑  松原小学校は明治五年 学制頒布せらるや福重松原共同して寿古郷株田に創立され 翌明治六年十月七日に 松原村字木下旧木下の旧庄屋を校舎に充て 松原小学校として独立して今日に至る 当時は生徒数四十八名である ここに創立百周年を記念し碑を建立す 昭和四十八年三月十一日 大村市立松原小学校 創立百周年記念会」との碑文が彫ってある。本体の大きさは高さ66cm、横幅1m3cm 、奥行31cmである。(掲載日:2020年3月16日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『松原小学校 創立百周年記念碑

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松原小学校の二宮金次郎像(にのみや きんじろう ぞう) 所在地:大村市松原本町、松原小学校
<概略説明> この銅像の金次郎像の建立年月日は昭和30(1955)年12月22日で建立者は濱口クイ氏である。このことについて台座部にある碑文に次の「」内のことが彫ってある。 「寄贈 濱口彦作氏 昭和三十年十二月ニ十ニ日 濱口彦作氏の遺志により夫人 濱口クイ氏が建立」 ただし、建立記念(集合)写真説明文の年月日などは「二宮金次郎銅像 寄贈者 故 M口彦作 氏 並に親族一同 昭和30.8.31」となっており、その季節通り服装は夏服である。(同じ像の建立なのに前者と後者に何故4か月も建立月日にずれがあるのかは現在のところ不明である) 大きさは本体と台座含めた高さが約3m40cmで、本体のみならば高さ約110cm、横幅が40cmある。台座のみの大きさは高さ約230cm、横幅約210cmである。本像は利発そうな顔の表情、細かく表現されている頭髪や背中に背負っている薪(たきぎ)1本1本に至るまで確認できるほど「精巧精緻(せいこう せいち)な造り」といえる。(掲載日:2020年1月11日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)松原小学校の二宮金次郎像

松原八幡神社の鳥居(まつばら はちまん じんじゃ の とりい) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> この鳥居は松原八幡神社の西側方向にある市道から本殿へ登る場合、その階段の登り口にある。鳥居の左右の柱には碑文がある。損傷している文字は推測しているが、建立年は寛文6丙午年(西暦1666年)9月吉日で建立者は彼杵本町(現在の大村市本町)の中嶋徳右衛門である。全体の大きさは高さ290cm、横幅395cmで、柱最下部の円周は149cmである。この鳥居は下部が太く、上部の方が細い形状を持つ肥前鳥居である。この肥前鳥居タイプは大村市内では類例が他にほとんどなく珍しいとも言われている。(掲載日:2014年10月12日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)松原八幡神社、鳥居の碑文

松原八幡神社の古い手水鉢(まつばらはちまんじんじゃ の ふるいちょうずばち) 所在地:大村市松原本町
<概略説明> この手水鉢は松原八幡神社の鳥居東側にある。土台石を含めた全体の大きさは高さ78cm 、横幅163cm、最上部の周囲403cmである。手水鉢の南東側に高さ約20cm、横15cmの大きさで一段削り取った碑文面があり、そこに建立者3名が彫られている。正確な建立年は不明だが推測ながら江戸時代中期に松原八幡神社が現在地に再興(再建)された頃と思われる。面取りなどの成形はしてあるようだが自然石できていると思えないくらいに形の良いものである。 (掲載日:2014年10月29日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)松原八幡神社の古い手水鉢

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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