大村辞典 | ”や”の項目 |
”や”の項目
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矢上の天満宮(やがみ の てんまんぐう) 所在地:大村市福重町(字「一楽」)) <概要説明> 矢上の天満宮の場所は大村市立福重小学校のプールから北北西へ直線で約80mの位置にある。祭神は菅原道真で、一般には「学問の神様」ともいわれている。江戸時代の(大村)郷村記を口語訳すれば「建立(創建)は延享(えんきょう)元年( 1744 )7月23日、神殿の大きさは奥行が約60cm、横幅が約90cmの萱(かや)ぶき屋根。拝殿は約2.7m四方の萱(かや)ぶき屋根。境内(けいだい)は奥行約7m、横幅が約5m」と記述されている。創建後も土地所有者の一楽氏や氏子によって改築が繰り返しおこなわれ地元で大事に祭られてきた歴史がある。この天満宮は受験シーズンなどに福重地区内外から参詣がある。(掲載日:2022年1月11日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページ、名所旧跡の)『矢上の天満宮』 (史跡説明板の)『矢上の天満宮』 |
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矢上の祇園牛頭天王(やがみのぎおんごずてんのう) 所在地:大村市福重町 <概要説明> 矢上の祇園牛頭天王の場所は、大村市立福重小学校の正門近くの市道脇にある。創建は不明だが、大村郷村記によれば(現代語訳)<当社(祇園牛頭天王)は元、祇園寺と言う寺の土地だった。天正年間に耶蘇(キリシタン)信者の破壊に遭い、その後、地主がここに神社を建立し享保七(西暦1722)壬寅(みずのえとら)年9月13日に再興(再建)された>との記述がある。(掲載日:2012年4月8日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『矢上の祇園牛頭天王』 |
矢上の馬頭観音(やがみ の ばとうかんのん) 所在地:大村市福重町 <概要説明> 矢上の馬頭観音の場所は福重町公民館へ南東側から登る場合、階段左側(西側)にある。ただし、元々この場所にあったものではないと言う。石像本体の大きさは高さ60cm、横幅23cm、胴囲74cmである。建立年は明治39 (西暦1906)年11月19日で、建立者は矢上郷(現在の福重町)の馬所有者が建立したものである。本像は3 人の神様が寄り添うような格好で顔の表情や手の格好からして微笑ましい姿4形である。摩耗や割れなどもあるが彫像は良く見えている。(掲載日:2014年9月18日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『矢上の馬頭観音』 |
薬師如来(やくしにょらい) 所在地:大村市福重町 <概要説明> この場所は福重公民館の南端側にある。薬師如来の創建は(大村)郷村記によれば応徳2年(1085年)と記述されている。ただし、この創建は唐泉寺と同じではないかとも推測されている。天正年間(1573〜1592)、キリシタンから焼打ちされた。また先の郷村記には「宗旨(宗派)は真言宗で、本尊は七仏薬師(ななぶつやくし)である。右の脇には阿弥陀(あみだ)、左の脇には長さ一丈(いちじょう、約3メートル)の不動明王(ふどうみょうおう)がある」と書いてある。さらに「寛永13(1636)年、新たに仏体(仏像)を調べて堂(建物)を建てた。 (中略) 天和2(1682)年に、ご神体が紛失した。正徳5(1715)年に木製の仏像を再建した。 (中略) すなわち、今祭られている薬師如来のことである」などとも記されている。(掲載日:2018年6月5日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『薬師如来』、『(史跡説明板の)薬師如来と唐泉寺跡』 |
矢櫃(やびつ) 所在地:大村市平町、字(あざ)「矢櫃」 <概要紹介> この地名の由来は住みよい町づくり「チーム鈴田設置の史跡説明板によると次の<>内が書いてある。<元亀三年(一五七二・戦国時代)に、武雄・平戸・諫早の軍勢が大村純忠の居城である三城城を攻めた(三城七騎籠りの戦いの)時、純忠の家臣の一人、横山の住人(現在の平町一九七八番地)冨永又助が巧妙な策によって、諫早軍の総大将大渡野(尾和谷)軍兵衛を切りつけ、諫早勢は命からがら逃走しました。その際、諫早軍が武具全て、矢櫃(矢を入れる箱)まで捨て去って下ったところから、そこを「矢櫃(やびつ)と呼び、また、這うようにしてよろけ登ったので、「這坂(へーざか)」というようになったと言い伝えられています> この呼び方は当時から長年伝承されきたので地名としても字(あざ)「矢櫃」となった。(掲載日:2020年6月5日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『(史跡説明板)矢櫃・這坂(やびつ・へーざか) 』 |
山口幸太夫祖母の墓碑(やまぐち こうだゆう そぼ の ぼひ) 所在地:大村市福重町、妙宣寺境内<位牌堂の東側の小高い丘にある> <概略説明> 墓碑全体の高さは150cmで、墓碑本体の高さ96cm 、幅35cm 、胴囲126cmである。この墓碑のあった場所について「元々、この山口幸太夫祖母の墓碑だけ、現在地から10m位離れた西側のやや今より下がった所から運ばれてきた」との地元伝承がある。現在は大村権七郎の墓碑と並んだ状態にある。正面の碑文には「天和四甲子二月九日 妙法 得来院妙舩霊尼 山口幸太夫祖母」とある。これを現代語訳すると「(命日)天和(てんな、てんわ)四(西暦1684年)甲子(きのえね、こうし、かっし)二月九日 (頭字)妙法 (戒名)得来院妙舩霊尼」である。この墓碑にある祖母と、大村権七郎の母は同じ「郡村」で同じ「山口」なので何らかの関係があるから近くの場所に葬られたのではと推測される。(掲載日:2017年4月6日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『山口幸太夫祖母の墓碑』 、 「大村権七郎の墓碑」 |
山口凍渓先生の碑(やまぐちとうけいせんせいのひ) 所在地:大村市玖島一丁目、大村市立大村小学校の校庭<長崎県指定史跡・ 五教館御成門(ごこうかんおなりもん)=通称” 黒門”の近くにある> <概略説明> 石碑本体の高さ約192cm、横幅約114cm、胴回り約179cmである。山口東渓は明治維新前後頃の大村藩校であった五教館さらには近代学校制度が施行された後も、玖島小学校(現・大村小学校)や大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)の先生や校長を歴任した。そこで学んだ人の中には明治維新での活躍、明治時代になって国や地方の役人あるいは民間企業などの重要な役職を担われた方も多かった。その門人・門弟達が先生の功績に敬意を表し、さらには顕彰のため山口凍渓先生の碑を建立した。 山口東渓は近代大村教育界において先駆的役割を果たした人である。(掲載日:2013年3月8日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『山口凍渓先生の碑』 |
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山田の滝(やまだのたき) 所在地:大村市上諏訪町 |
八幡の馬頭観音(やわたのばとうかんのん) 所在地:大村市黒丸町 <概要説明> 八幡の馬頭観音は明治13(1880)年12月1日)に建立された。本体のみの高さは56cm、横幅36cm、胴囲65cmである。現在、道路(歩道)脇にあるが、元々この場所にあったものではなく明治時代当時の竹松村馬場郷、八幡郷周辺にあったものと思われる。その後、海軍航空隊の拡張工事などで移転を何回もして現在の個人所有地にある。馬頭観音の本体と二つの土台石併せて高さが合計で1mを越していて全体スマートである。(掲載日:2012年6月26日) <関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『八幡の馬頭観音』 |
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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。 |
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