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大村辞典
はじめに
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大村辞典 ”い”の項目

”い”の項目

伊賀峰城(いがみねじょう)  所在地:大村市 溝陸町、字「伊賀峰」
<概略説明> 伊賀峰城は、戦国時代に築かれたと推測されるが、築城者含めて詳細は不明である。江戸時代に描かれた大村藩領絵図に円錐形の山容とともにイカ峯城(伊賀峰城)の文字がある。前と同様に(大村)郷村記にも伊賀峰城の項目に記述されている。場所が諫早領の直ぐ近くにあるので、そこから大村領を守る最前線の城だったかもしれない。城の頂上部は東西24m、 南北約84m(約2.01平方メートル)で、中央には昔から夫婦岩と呼ばれている大きな2個の石がある。また、城を守るための土塁、切岸、石垣、曲輪、乾堀(空堀)なども見られる。

<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『伊賀峰城
、『伊賀峰城跡の史跡説明板

石走川(いしばしりがわ)  所在地:大村市 弥勒寺町、福重町、皆同町、草場町
<概略説明> 石走川は、弥勒寺町に水源を発し、長さ1.895kmある。最下流では、「よし川」とも呼称され大村湾に注いでいる。ここに、流れ込む川筋は主なものだけで5本くらいある。(写真や詳細説明文は下記から参照を)(掲載日:2006年7月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)石走川

石走の線刻石仏(いしばしり の せんこくせきぶつ)  所在地:大村市 福重町(個人宅裏庭の古墳跡)
<概略説明> この線刻石仏は福重町の個人宅地内にある通称「石走古墳」と呼ばれている所にある。古墳跡の奥の壁石に仏模様が彫ってある。その石全体の大きさは高さ約100cm、横幅約115cm で、仏(線刻模様)の大きさ は高さ約95cm、横幅約75cmである。模様線は納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した姿形で、光背(こうはい)はあるが、蓮華座(れんげざ)の模様線はない。この姿形は福重地区にある同種の線刻石仏13体と光背線の有無を除けば基本的には同じと思われる。制作年代 は正確には不明だが中世時代とも推測されている。(掲載日:2016年9月29日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『(CG石仏写真の)石走の線刻石仏』、
石走の線刻石仏

石走道祖神(いしばしりどうそしん)  所在地:大村市 福重町
<概略説明> この石は福重町の石走川近くの道路脇にあり、幅、高さとも約1mの平たい石である。国語事典の大辞林 によると、道祖神(どうそじん、どうそしん)とは、「村境や峠にまつられる、禍・悪霊を防ぐ神。旅の安全をもつかさどる。婚姻や出産の神とされることもある。地蔵・猿田彦神と習合したものも多い。さえのかみ。手向けの神。道陸(どうろく)神。」と書かれている。 (写真や詳細説明文は下記から参照を)(掲載日:2007年4月5日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)石走道祖神


石割樫(いしわりがし)  所在地:大村市今富町の大神宮神社の境内
<概略説明>  この樫の木は、高さ約3m、周りが約10mある石の上に生えていて、石の真ん中に割れ目がある。今では2m下の地面に太い根を降ろし、高さ5mほどにまで成長している。樹齢100年ほどと思われる。(写真や詳細説明文は下記から参照を)(掲載日:2006年7月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)石割樫

伊勢山城跡(いせやまじょうあと) 所在地:大村市中里
<概略説明> この『伊勢山城』は戦国時代に築かれた城と思われる。場所は大村市中里町にある伊勢山大神宮跡の東側にある通称「伊勢山」の小高い所である。この城は江戸時代の(大村)郷村記に記述されているが、大村藩領絵図の方には描かれていない。先の(大村)郷村記には、「伊勢山の古城」として書いてあるが、この編さん当時から天和年間(1681〜1683年)の古記録を引用する形で記述している。そのため城跡の存在や概要の規模は当然分かるが、詳細な城紹介内容ではなかった。また、近代や現代の書籍類にも城名くらいは記述されていたが、その場所や詳細内容は不明だった。このように長期間、城遺構が分からなかったが、伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文の調査後の2015年1月20日に上野が発見した。概略の大きさは東西(横幅)の長さ100m強、南北(奥行)50m強で、主郭(本丸)と副郭(二の丸)がある。あと主郭と副郭の周囲ほぼ全部に土塁、切岸、曲輪が施されている。自然の地形(小山)をうまく生かした戦国時代らしい城の一つといえる。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)伊勢山城

伊勢山の神社城跡(いせやまのじんじゃあと) 所在地:大村市中里
<概略説明> 伊勢山の神社跡は中里町の国道34号線・バス停「日焼」から北東方向へ約200mの所にある。この神社の創建は(大村)郷村記によれば「建立の時代は不明だが、天和(1681)以前よりあった」と記述されている。地元の永野家13代か14代前、寛永(1616)頃の当主が「田の普請
(ふしん)をしていると、空から金色の御幣(ごへい)が舞い下りてきた」のを神様のお告げと思い伊勢大神宮に参拝した。その際に神(宮司)から「神宮の分神を授ける」と言って金色の立像神を渡された。帰郷後、自宅近くの伊勢山に神社を創建したという。永野家が代々、宮守を務めていたが、明治3年に伊勢山の大神宮は古松権現の社にまとめられ、「大神宮神社」と名前が変わった。現在、参道入口に鳥居の部材などが残り、石垣には工事記念の碑文がある。そこから約45m登ると境内跡がある。その広さは神殿跡に向かって奥行が約25m、横幅が約15mある。(掲載日:2020年5月17日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『伊勢山の神社跡』 「伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文

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伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文(いせやまだいじんぐうあとのさんどういしがきひぶん) 所在地:大村市中里
<概略説明> 伊勢山大神宮跡は中里町の国道34号線・バス停「日焼」から北東方向へ約200mの所にある。その神社跡の参道石垣碑文のある場所は、その名の通り参道の入り口に向かって右側にある石垣の最上部右側にある。碑文には「天保12(1841)年に伊勢山の氏子(うじこ)」で建立され工事費用の寄贈者や世話役と思われる7名の氏名が彫ってある。工事名称は碑文に彫っていないが記念碑のある場所から推測して、この碑文は石垣、鳥居や参道整備などの竣工記念碑と思われる。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文

いたぶ石(いたぶ いし) 所在地:大村市溝陸町(みぞろくまち)<字「伊賀峰)」>
<概略説明> いたぶ石は大村市と諫早市の境近くにある伊賀峰城跡頂上の南端側から約20m下った所にある。自然石で高さ7m65cm、横幅4m80cmある。このいたぶ石は江戸時代の(大村)郷村記にも「伊賀峰の古城 (中略) 南の方いたぶ石と唱へ高サ貮丈六尺、横壹丈六尺余の屏風を立たるがことき平石あり (後略) 」との記述がある。その後半内容の(現代語訳で)「屏風(びょうぶ)を立てたような平石がある」とあるが、実際はやや傾斜のある平らな大きな石である。名称の由来について、石の形状が「イタブの木の実」(実全体も、または切り開いた形でも同じ)に似ていたからだと推測される。(掲載日:2017年3月21日、第二次掲載日:2020年7月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『いたぶ石』 、伊賀峰城(紹介ページ)いたぶ石

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一楽小堤(いちらく こつつみ) 所在地:大村市 福重町(矢上の天満宮の近く)
<概略説明> この堤のある場所は旧・矢上郷の字(あざ)「一楽」で、矢上の天満宮の近くにある。(福重小学校や福重幼稚園も近くにある) 築堤年は不明である。堤の大きさは圃場整備などで変わった可能性もあるが、現在は目測で南北間が約15m、東西間が約20m(ほぼ四角形)である。当初から、これと同じ形状や大きさだったかは不明である。江戸時代の(大村)郷村記を参照すれば(この堤から水を供給する)耕作地(面積)は約1689平方メートルである。(なお2021年現在、先の耕作地はほぼ全部住宅地に変わろうとしている)(掲載日:2021年1月14日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)一楽小堤』 (「矢上の天満宮」)

一里塚跡(いちりづかあと) 所在地:大村市大里町(JAながさき県央・三鈴支店駐車場入口周辺)
<概略説明> 鈴田にある一里塚跡の史跡説明板前を通る市道は小倉と長崎を結ぶ旧・長崎街道でもある。この街道には一里(約4km)ごとに「一里塚」が設け られていた。そこに榎(えのき)や松を植えて旅の道程の目安にしたり駕籠(かご)などの乗り賃の支払いにも役立てたとも言われている。暑い日には木陰になり旅人の休憩所にもなった。(掲載日:2018年5月24日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)一里塚跡

今富城(いまどみじょう) 所在地:大村市皆同
<概略説明> この『今富城』は、戦国時代に築かれた城である。大村純忠時代頃に築かれた横堀(空堀)遺構も発掘されている。今富城の存在は、大村藩領絵図や(大村)郷村記、さらには一瀬永正の系図や宣教師ルイス・フロイスの記録などにも記述されている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)今富城
今富のキリシタン墓碑(いまどみのきりしたんぼひ) 所在地:大村市今富
<概略説明> この『大村市今富のキリシタン墓碑』は、長崎県指定史跡で指定年月日は、1963(昭和38)年5月8日である。今富町586の1にある。(写真や詳細説明文は下記から参照を)(掲載日:2007年4月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)今富のキリシタン墓碑
今富の侍の墓(いまどみのさむらいのはか) 所在地:大村市今富
<概略説明>  この墓は、古記録(大村)郷村記などに記載されていない。しかし、地元の伝承で長年地元伝承では「侍(さむらい、武士)の墓」などと呼ばれてきた。この直ぐ近くで戦国時代、大村純忠の軍と後藤貴明の軍が、「鳥越・伊理宇の合戦(とりごえ・いりゅうのかっせん)」をおこなった。この激闘で亡くなった侍の墓と思われる。(詳細は、下記から参照)(掲載日:2010年9月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『今富の侍の墓

今富橋(いまどみばし) 所在地:大村市今富(佐奈河内川の上部)
<概略説明> (現在の)今富橋の竣工は1990(平成2)年3月である。その長さは22.50m、幅は8.75mで市道名の坂口皆同線にある。この橋は上流から重井田町、野田町、立福寺町と流れ下ってきた佐奈河内川(さながわちがわ、長さ2.924km)の上部で、また郡川との合流地点より約400m上流に架かっている。この橋で珍しいのは橋名、竣工年、市道名などの銘板が、全て当時の福重小学校の児童による揮毫(きごう)である。 (掲載日:2018年10月4日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『今富橋(いまどみばし)

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今富浮立(いまどみふりゅう) 所在地:大村市今富
<概略説明>  今富浮立の歴史については諸説がある。ただし、踊る時に使用される鐘=鉦(かね)には「昭和3(1928)年」、「昭和7(1932)年」の年号入りがある。この年号でも分かる通り、既に今富浮立は道具一式含めて今富独自の踊りとして確立されたものと考えられる。戦争中を除き戦前は福重村の敬老会や運動会あるいは今富郷での祝宴などで継続して踊られていた。戦後については1949 (昭和24)年、当時の矢上郷(現在の福重町)妙宣寺の鐘つき堂落成祝いで披露されたのが、戦後初めてのことだと言われている。現在も福重地区敬老会や福重夏祭りなどで披露されている。 浮立の形態は、掛打ち踊りと大太鼓(月ノ輪)を打ちながら舞う大太鼓舞の複合の浮立である。曲数は少ないが、よくまとまっている。ササラが付き、掛打ちは面を付けない。 (掲載日:2014年7月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『今富浮立

岩名遺跡(いわないせき) 所在地:大村市今富
<概略説明> この岩名遺跡の場所は今富町・字(あざ)「岩名」である。1986年、個人宅の倉庫建設前に発掘された。(大村市教育委員会発行『市内遺跡発掘調査速報版』を参照すると)大村市内で最も古い縄文土器や石器が出土した。その年代は縄文時代で今から約8000年から約7000年前頃だと言われている。出土した土器は表面に楕円形やひし形、ギザギザの線など色々な模様を持ち厚手でバケツのような形になるものが多かった。(掲載日:2012年7月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)岩名遺跡

岩名城(いわなじょう) 所在地:大村市今富
<概略説明> この『岩名城』は、大村藩領絵図に描かれている。大村市今富町で郡川の支流である佐奈河内川と野田川(山田川)に挟まれた所で館みたいな城だったろうと推測されている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)岩名城

岩松城跡(いわまつじょうあと) 所在地:大村市岩松
<概略説明> 岩松城は江戸時代の(大村)郷村記や現代の書籍類に記述されている。城跡の場所としてJR岩松駅のやや西側の国道34号線周辺から北東方向へ高速道路(長崎自動車道)の間にある尾根状の台地(丘)にあったと書いてある。従来説では高速道路南側付近と言われてきたが、近年の研究では他の場所含めての数か所の説があり特定はできていない。ただし、先の大地(丘)の東側に設置されている。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)岩松城』 、 「大村の史跡説明板シリーズ」の『岩松城跡(いわまつじょうあと)

岩屋権現跡(いわやごんげんあと) 所在地:大村市今富
<概略説明> 岩屋権現は江戸時代の(大村)郷村記に記述されている。この場所は今富町にある冷泉寺集会場から南方向へ約40m行った民家の石庭(自然石が沢山おいてある築山)もしくは、その上側にある雑木林周辺と言われている。 岩屋権現の創建は大村郷村記によれば寛文年間(1661〜1672年)である。そこには権現と崇(あが)める石があり、穴もあいていたようだが、現在、その石はどれなのか不明のようだ。(掲載日:2016年9月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)岩屋権現跡

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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