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大村辞典
はじめに
もくじ
大村辞典 か”の項目

か”の項目
皆同の侍の墓(かいどうのさむらいのはか) 所在地:大村市皆同町
<概略説明> この墓は、古記録(大村)郷村記などに記載されていない。しかし、地元の伝承で長年「侍が切り死にしたもので、その侍の墓だ」との内容で伝わってきた。現在まで皆同町のある個人宅でまつられてきた関係上、墓周辺はきちんと整備、保存されている。(詳細は、下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)皆同の侍の墓

皆同村の村境石(かいどうむら の むらざかい いし) 所在地:大村市皆同町(現在地は福重商工振興会設置の案内板近く)
<概略説明> この「皆同村の村境石」(自然石)は正確にいえば「皆同村と福重村との村境石」である。元々、福重には今富村・皆同村・福重村の3村があった。江戸時代、大村藩がおこなった「行政改革」によって3村が合併して福重村(現在の大村市福重地区)となった。つまり、この自然石は合併前の皆同村と福重村の村境石だった。元の場所は長年、JR大村線・皆同ガード下の西側10数メートルの位置にあったが道路拡張工事などによって、現在は先のガードを挟んで反対側の植栽の中にある。 (詳細は、下記から参照)(掲載日:2019年10月1日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)皆同村の村境石(かいどうむら の むらざかい いし)

陰平町の寺跡(かげひらまち の てらあと) 所在地:大村市陰平町
<概略説明> 陰平町の寺跡は西明寺跡、庵寺跡、久良寺跡の3か所である。その場所は(史跡説明板の)「経塚と陰平町の寺跡」紹介ページに掲載中の地図を参照願いたい。その説明として「陰平上西明園(せーもず)に西明寺(さいみょうじ)、田久保地区に庵寺(あんでら)、隅(すみ)地区の久良川(きゅうりょうがわ)水源の上に久良寺(きゅうりょうじ)がありました」と記述されている。ただし、この3か所の寺跡の現状は先のリンク先「史跡説明板の内容」にもある通り、「西明寺・庵寺は跡形もなく、久良寺だけが水源(水神様)の上方に、寺跡と思われる平地(五五〇平方程)を残しています」との内容である。 (詳細は、下記から参照)(掲載日:2020年6月25日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)経塚と陰平町の寺跡

 陰平町の経塚(かげひらまち の きょうずか) 所在地:大村市陰平町
<概略説明> 「住みよい町づくり「チーム鈴田」設置の史跡説明板によれば、この経塚は天正2年(1574)、キリシタンによって寺社の破壊が行われ(陰平町にあった)久良寺がその暴徒に襲われた時に経文(きょうもん)を持ち出して寺の東の山に埋めたのが「経塚(きょうづか)」だと伝えられている。先の説とは別に、この経塚は全国で平安時代の後期から鎌倉時代初期に流行した末法思想時に築かれたものではないかとの説もある。この経塚の石組の中央最上部にある摩利支天は昭和28年(1953)に土地所有者の方が建立されたものである。なお、経塚が大村市にあるのは唯一の事例で、長崎県内でも現存しているのは珍しい。 (詳細は、下記から参照)(掲載日:2020年8月10日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)陰平町の経塚

------(陰平町の)礫岩(れきがん)-------
 注:この用語は、””項目の「(陰平町の)礫岩」を参照。


籠立場跡(かごたてば あと) 所在地:大村市中里町(鈴田峠)
<概略説明> この籠立場跡は鈴田峠の旧・長崎街道脇にある。傾斜地に約5m四方の石垣によって平地ができ街道と一体化している。この場所は長崎街道を通行する大名がここで籠を降り、休憩した所と言われている。現在は木々が繁っていて見ることは出来ないが、江戸時代当時の遠望は東に多良岳・五家原岳を、北に郡岳を望め、旅の疲れを癒せる休憩所として使われていた。(詳細は、下記から参照)(掲載日:2018年3月12日
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの史跡説明板シリーズ))『籠立場跡・藩境(かごたてばあと・はんさかい)

笠山(かさやま) 所在地:大村市野田町
<概略説明> 笠山の標高は273mである。場所は大村市野田町にある福重地区最大のため池である赤似田堤の北側にある。山容自体、なだらかな陣笠の形に似た感じがする。赤似田堤の水面に写る姿含めて景色の良い所である。この山は江戸時代に作成された大村藩領絵図に描かれているが(大村)郷村記には項目別による山の記述はない。また、現在一般に使用されている地図にも標高が低いためか山の名称などの記載はない。遠景から見た美しさと逆に山の頂上部には車か車庫くらいの大きい石が沢山ある。 (詳細は下記から参照)(掲載日:2013年6月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)笠山

梶ノ尾の馬頭観音その1(かじのおのばとうかんのん その1) 所在地:大村市松原一丁目
<概略説明> この梶ノ尾の馬頭観音その1は楠(くすのき)のご神木である。このことは江戸時代、大村藩が編纂した(大村)郷村記にも記述されている。直ぐ脇に松原宿活性化協議会の史跡説明板があり、そこには「梶ノ尾の馬頭観音石像と大楠 野岳の合戦時、落武者の一人がここまで来て亡くなったが、この地に馬を埋めた。地元の方が供養の為、馬頭観音を祀り、楠を植えたのではないかという。楠の周囲は8.1mあり(以下省略)」と書いてある。(掲載日:2014年9月5日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)梶ノ尾の馬頭観音その1

梶ノ尾の馬頭観音その2(かじのおのばとうかんのん その2) 所在地:大村市松原一丁目
<概略説明> この梶ノ尾の馬頭観音その2は大村市内で最も知られた馬頭観音の一つである。それは、直ぐ脇に松原宿活性化協議会の史跡説明板があるから。本体のみの大きさは高さ50cm、横幅29cm、胴囲100cmである。制作年代は正確には不明である。土台部分の碑文には「昭和三十六年十月吉日 八幡神社ヨリ移転郷拝」 (現代語訳:昭和36(1961)年10月吉日に八幡神社より移転した)とある。特徴点として (基本形は)三面六臂(さんめんろっぴ)の造りながら光背部分が他の馬頭観音より狭い。彫像の盛り上がりが大きく、顔、手から髪の毛に至るまで精巧に細工されている。この馬頭観音の直ぐ後方に梶ノ尾の馬頭観音その1があり幹回り8.1mもある楠(くすのき)であり周囲のどこからでも目立っている。 (詳細は下記から参照)(初回掲載日:2012年5月11日、第二次掲載:2014年5月16日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)梶ノ尾の馬頭観音その2

金屋の地蔵菩薩(かなやのじぞうぼさつ) 所在地:大村市沖田町
<概略説明> この地蔵は沖田町公民館近くの金屋(金谷)にある。石の表面に三体の地蔵が彫られている。建立年代は不明ながら江戸時代に編さんされた(大村)郷村記に記述されているので、仮に新しくても郷村記の記述以前である。何故この地に地蔵があるのかも分かっていない。大村市内では通常、六地蔵が多く見られるため元々は三体の地蔵が二つ=六地蔵(六体地蔵)だったのではとの説もあるが、いずれにしても詳細な記録も伝承もないので正確には不明である。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)金屋の地蔵菩薩

金屋の二体仏(かなやのにたいぶつ) 所在地:大村市沖田町
<概略説明> 石に彫られた二体の坐像である。大村郷村記には「金屋 薬師」と記述されているが、薬師如来に肝心な薬壺がない。そのため薬師如来と表記せずに、二体仏としている。(詳細は下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)金屋の二体仏

竈権現(かまどごんげん) 所在地:大村市寿古町
<概略説明>
 御神体は釜(鍋)の欠けた物であったが現在は三宝荒神を祀っている。創立は不明だが(大村)郷村記によれば寛永19(1642)年に妙宣寺の住職がお堂を建てているので当然それ以前からあったものと思われる。現在は寿古町や皆同町の地域の方が祀られ例年10月に妙宣寺に来て頂いて例祭が執り行われている。(掲載日:2007年10月24日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)竈権現

竈権現の地蔵(かまどごんげんのじぞう) 所在地:大村市寿古町
<概略説明>
 この地蔵は寿古町にある竈権現の前にある。建立は江戸時代の「寛延三庚午(かのえうま、こうご) (1750) 年九月上旬」である。これよりも古い戦国時代建立の六地蔵は大村市内に多数現存しているが、「江戸時代建立の地蔵としては最古ではないか」とも言われている。過去から幾度となく氾濫や水害を繰り返している郡川の右岸近くにありながら建立後から(2013年現在まで)約260年間、水害に見舞われなかったとの伝承もあり、ほぼ無傷の状態である。地蔵の本体・蓮華座・土台部分含めて上下・左右のバランスが良く、大変スマートな形である。 (掲載日:2013年11月2日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『竈権現の地蔵』、竈権現


釜川内空襲(かまかわち くうしゅう) 所在地:大村市陰平町
<概略説明>
 釜川内空襲は1945(昭和20)年7月5日の正午頃に陰平町、釜川内の集落で発生した。その犠牲者として(妊娠中の)女性1名を始め罹災の民家2戸が全焼した。なぜ、軍事施設もない釜川内で空襲があったかの理由は当時、大村湾沿いの集落の平地(現在は民家)に航空燃料(ドラム缶で300缶)が貯蔵されており、それをアメリカ軍機が見つけて燃やし破壊するため機銃やロケット砲を撃ち込んだためと地元で言われている。2012年頃(注:記念碑建立趣意書の作成年月日は2012年7月5日である)に地元の方によって「悲惨な戦禍を愁い、悠久なる恒久平和を祈念しつつ、幾世代にもわたる言付けを残さんがため」に現在、大変見晴らしの良い「どん牛山展望台」(標高約97m、緯度経度:32度52分58.91秒 129度58分05.63秒)に釜川内空襲記念碑が建立されている。あと、先に全焼した内の1戸に空襲の猛火に堪えて幹が大きく溝(空洞)のようになりながら戦後も成長を続けている「空襲柿の木」も現存する。(注:射殺された女性の氏名をはじめ全焼の2戸、空襲柿の木、航空燃料貯蔵などの場所はほぼ特定できている) なお、この空襲関係は長崎新聞(2011年8月12日発行)「水や空」にも紹介してある。 (掲載日:2020年9月14日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『釜川内空襲

 
上河原の弁財天(かみごうらのべんざいてん) 所在地:大村市沖田町
<概略説明> 
郡川の左岸から約50mの所に上河原の集会場があり、その敷地内にある。大村郷村記にも「上河原 弁財天 」との記述がある。大辞林によると、弁財天とは「インド神話で、河川の女神。音楽・弁舌(べんぜつ)・財福(ざいふく)・智慧(ちえ)の徳があり、吉祥天(きっしょうてん)とともに信仰された」と解説されている。当初の建立目的として郡川(こおりがわ)の氾濫(はんらん)を治め農産物の豊穣(ほうじょう)、住民の安全や財産を守ることなどを祈願して建立されたと推測される。なお、現在、毎年7月と12月に地域で大事に祭っている。(詳細は下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページ(史跡説明板シリーズの)『上河原の弁財天』) 
、(名所旧跡の)『上河原の弁財天

--準備中--

上鈴田庄屋跡(かみすずた しょうや あと) 所在地:大村市中里町
<概略説明> この場所(史跡説明説明板がある地点)へ行くには(鈴田)大神宮神社の史跡説明板からならば東方向へ市道を約300m行った所である。旧・鈴田村(現在の大村市鈴田地区)は江戸時代中期、上鈴田と下鈴田に分かれたため両村にそれぞれ庄屋が設けられ、この所に上鈴田庄屋があった。しかし文化11年(1814年・江戸時代後期)の行政改革時、下鈴田庄屋が上鈴田と合併になり、庄屋は上鈴田一つにまとめられた。その後、文政7年(1824年)に下鈴田が三浦への継場となるため今度は上鈴田庄屋を岩松へ移すこととなり、土蔵や小屋なども移築された。そして文政8年(1825年)、その跡には横目役所(地方監視の役所)が建てられた。庄屋は地元の有力な豪農がつとめたようで、年貢諸役や行政的なことの下請けなどを行っていた。(掲載日:2020年5月25日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページ(史跡説明板シリーズの)『上鈴田庄屋跡

 

上八龍の線刻石仏(かみはちりゅう の せんこくせきぶつ) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 
この石仏は元々、弥勒寺町の字(あざ)「上八龍」にあった。昭和時代末期か平成時代初期頃におこなわれた圃場整備時にいったん田んぼの土手に置かれた。2014年3月26日、福重地区活性化委員会と弥勒寺町内会の共同事業により、弥勒寺公民館東側、熊野神社境内に移設・安置された。石全体の大きさは高さ175cm、横幅312cm、重さ2トンある。この石仏の建立年代は正確には不明だが、平安末期から中世時代と推測されている。一見、如来系石仏に見えるが、納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した姿形は神仏習合像の可能性もあり、正確には不明である。(詳細は下記から参照)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
上八龍の線刻石仏(CG写真)

上八龍の単体仏(かみはちりゅう の たんたいぶつ)(滑石製の平安仏) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 
この滑石製平安仏(単体仏)は所有者によると元々、弥勒寺町の字(あざ)「上八龍」周辺にあったと言う。ただし、字が違っているとの話もある。いずれにしても先祖がどこからか持ってきて、長年大事に祀ってこられたのは事実である。この石仏の造立年代は末法思想との関係で経筒の埋められた経塚の上に乗っていた単体仏と推測されるので平安時代末期と思われる。石材は滑石製である。石仏全体の高さは22.5cm、横幅は15cmである。なお、この石仏の裏面には後世の悪戯(いたずら)と思われる粗彫りもある。(詳細は下記から参照)(掲載日:2018年9月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの
上八龍の単体仏

亀石(かめいし) 所在地:大村市今富町 大神宮の境内
<概略説明> この石は、頭や首の形自体が亀にそっくり。さらに、顔に当たる部分まで、何かしら表情がある。いつから、この石がここにあるのか不明とのこと。(詳細は下記から参照)(掲載日:2007年3月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)亀石


萱瀬の軍馬慰霊像(かやぜ の ぐんば いれいぞう) 所在地:大村市田下町 氷川神社の境内
<概略説明> 
この慰霊像は大村市萱瀬地区(旧・萱瀬村)の馬が戦争で多く徴用されたが一頭も帰国することが出来ず戦地で死亡したため、それを慰霊するために立てられた。土台を除く軍馬像本体の大きさは高さ135cm 、横幅150cm、奥行き40cmである。建立年は1991(平成3)年9月29日、建立者は日本郷友連盟・萱瀬郷友会、彫刻家は竹内修氏で、鋳造会社は株式会社・高岡鋳芸社(富山県高岡市)である。土台(高さ約170cm)の上にある軍馬像は、小ぶりながら姿形が実に素晴らしく、たくましさ、さらには今にも動き出さんばかりの迫力がある。また、美術的価値からしても、かなり高いと思われる。 (詳細は下記から参照)(掲載日:2014年3月11日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)萱瀬の軍馬慰霊像


萱瀬村上下境石(かやぜむら かみ しも さかいいし) 所在地:大村市宮代町、田下町
<概略説明> この萱瀬地区(旧・萱瀬村)にある境界石は(大村で最も広い村だった)萱瀬村を耕地の出来高で萱瀬上村6町歩(約9.500平方メートル)、萱瀬下村6町歩ずつ分けるために南北に1基(石)づつ境界石を設置したものである。その二つの石の間を結んだ約350mのラインが上村、下村の境界線であった。このライン周辺上には菅牟田川、里道(赤道)、市道の一部がある。先のように元々は二つの石が南北の位置にあったが、北側は門口の工事の時になくなり、現在は南側の境界石だけが現存している。この石の大きさは(目測ながら)高さ1m強、幅60cm位の細長い目立つものである。ここには古いため文字判読は難しいが説明板も設置されていて、しかも国道444号線脇の石垣上部付近にあるので場所は分かりやすい。(掲載日:2020年12月23日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの『萱瀬村上下境石


--準備中--

伽藍堂(がらんどう) 所在地:大村市沖田町 (郡川の堤防脇)
<概略説明> 
伽藍堂の意味は、ひとことで言えば「伽藍神(がらんしん)をまつってある堂」のこと。なぜ、その堂が、郡川の堤防近くにあるのかも含め伽藍堂自体の存在が、地元でも不明である。このことは江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも由緒などの詳細は記述されていない。現在、石垣の上に7体ほどの自然石が祀られているようである。(掲載日:2012年12月15日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)伽藍堂


がろう島(がろうじま) 所在地:現在はないが長崎空港建設工事前までは箕島周辺にあった島
<概略説明> がろう島は長崎空港建設前まで大村湾内の箕島近くに一つの島として存在していた。この島は箕島周辺にあった三つの島の中では最大の島で大村市街地から見れば箕島より手前側にあり小山みたいな形状に見えていた。(大村)郷村記によれば江戸時代には松の木も生えていたが大岩石の島として記述されていた。その岩石があったためか近代に石切り場、採石場となり陸地側の土木建築用石材として使われた。(掲載日:2013年7月7日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)がろう島


--準備中--

川添福一氏の寄附記念碑(かわぞえふくいちしのきふきねんひ) 所在地:大村市松原本町5番地1、松原小学校
<概略説明> 松原小学校にある川添福一 氏の寄附記念碑は同氏が同校に昭和29(1954)年11月に多額の寄付したことを顕彰、感謝して建立されたものである。この記念碑に彫られている表面の碑文によると当時の「金拾萬圓」(10万円)であった。そして、その寄付金は学校の「基本教育施設費」に使われたことも碑文で分かっている。建立年は裏面の碑文によると、昭和30(1955)年1月となっている。建立者名は彫られていないので、推測ながらも当時の松原地区住民の方々や学校関係者と思われる。この記念碑の本体部は自然石で、その大きさは高さ1m11cm、横幅64cm、胴囲1m73cmである。(掲載日:2020年4月25日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの) 松原小学校 川添福一氏の寄附記念碑


川の中の碑文石(かわのなかのひぶんせき) 所在地:大村市上諏訪町(山田の滝の滝壺から下流へ10mいった川床)
<概略説明> この碑文石の本来名称は瀧壺迹驚淵巌壁碑銘<意味は「滝壺(たきつぼ)である迹驚淵(とどろきぶち)の巌壁(がんぺき)にある碑銘=碑文」と思われる>である。建立目的は日蓮宗の守護神である七面大明神(七面天女)の安置と思われる。建立者は(本経寺の第8代住職の)日迢(にっちょう)で、建立年月日は元緑十三庚辰(かのえたつ、こうしん)年(西暦1700年)8月19日である。元の建立場所は当時「迹驚の瀧(とどろきのたき)<現在呼称:山田の滝>の滝壺(たきつぼ)の岩壁にあった。1957(昭和32)年7月25日に発生した大村大水害時に下流10mに流され現在は川床にある。この自然石の大きさは高さ約110cmプラス水面下(推定で全体160cm位か?) 、横幅約205cm 、奥行き約190cmである。この水害の力で石の三方面は割れているが不思議と碑文面は損傷が少ない。碑文全体は目視では難しいが、一部分ながら拓本では判読可能である。なお大村郷村記にはほぼ全文が記述されている。
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)川の中の碑文石

--準備中--

--準備中--

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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