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大村辞典
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大村辞典

”た”の項目


”た”の項目
(大村市消防団)第11分団(だい11ぶんだん) 所在地:皆同詰所は皆同町、立福寺分駐所は野田町
<概略説明> 大村市消防団・第11分団の管轄区域は福重地区(10町内、旧・福重村=現在の福重小学校の校区)である。分団員定数は「71名」だが2018年1月現在で在籍数は57名である。第11分団の発足は大村市消防団と同じ1947(昭和22)年である。それまで(旧・福重村時代の)警防団と言う名称であった。さらに福重村警防団の前は福重村消防組と思われる。その消防組と呼ばれている組織は全国的には「明治27年(1894年)勅令で「消防組規則」を制定」されているので、福重村もその頃に発足したものと推測される。大村市消防団の発足主旨は「自分たちのまちは自分たちで守る」という「郷土愛護の精神」と、市民の生命・財産を守るという「奉仕の精神」をもつ市民により組織されものである。(掲載日:2018年6月16日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『
大村市消防団・第11分団(旧・福重村の消防組、警防団)の概略史

大神宮(今富町)(だいじんぐう)  所在地:大村市今富町
<概略説明> この大神宮は、(大村)郷村記によると1542(天文11)年、大村純前が今富城内に創建した。その後、尾崎(おさき、現在の今富橋近く)に移されたといわれている。1574年にキリシタンによる焼打ち、略奪などにより破壊された。江戸時代の1671年に現在地(冷泉寺)に再建された。
(掲載日:2011年3月25日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)大神宮(今富町)

大神宮の御願成就(だいじんぐう の おがんじょうじゅ)  所在地:大村市今富町
<概略説明>
この大神宮の御願成就の趣旨は、氏子(うじこ)が1年間通して大神宮(神様)に様々な願い事(例えば農業ならば「五穀豊穣」、家庭ならば「家内安全」など)をした結果、その祈願が叶ったので、神様への感謝の祭礼(儀式)である。開催月日は年度によって違うが毎年11月下旬頃である。主宰は今富町、冷泉寺集落(大神宮の氏子)で参加者は約20名である。この御願成就は一見すれば「お百度参り」にも似ているが、本殿と鳥居の間を氏子数十人が榊(さかき)の葉を持って合計100回参るものだ。同時に、その回数ごとに榊の葉は細い枝に1枚ずつ通される。100回(枚)になれば、その榊の葉は神様に奉納される。後は拝殿で直会(なおらい)もおこなわれる。掲載日:2024年8月9日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)「大村歳時記シリーズの『大神宮の御願成就』、「大神宮(今富町)


 
太神宮(重井田町)(だいじんぐう)  所在地:大村市重井田町
<概略説明> 太神宮は、重井田町公民館敷地内にある。鳥居をくぐり、公民館裏の階段を登ると、石の祠(ほこら、神社)がある。大村市内に数多くの神社があるが、大きな石の上に祠があるのは、けっこう珍しい。創建は不明だが、再建されたのは、寛政2(1790年)年である。(掲載日:2011年3月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)太神宮(重井田町)


大日堂(だいにちどう)  所在地:大村市寿古町
<概略説明> 大日堂は、戦国時代(大村純忠の頃)、天正2(1574)年、キリシタンによる他宗教弾圧が起こり神社仏閣への焼打ち、略奪、破壊の限りをつくした。僧侶・峯阿乗(みねあじょう)は、その弾圧攻撃から嬉野へ逃れようとしている途中、福重村でキリシタンに捕まり殺害され死体は便所に捨てられた。その場所に建立されたのが大日堂である。現在、お堂(建物)はなく、大日如来(だいにちにょらい)の石仏が祭ってある石祠(せきし)がある。(掲載日:2012年2月28日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『大日堂、・『峯阿乗の碑

題目五千回唱和記念碑(だいもく 5000かい しょうわ きねんひ)  所在地:大村市松原本町
<概略説明> この記念碑は、大村市松原本町にある松原八幡神社へ登る階段左側(西側)にある。大きさは高さ約198cm、横幅約122cm、周囲約260cmである。「題目五千回唱和」の意味は「法華宗(日蓮宗)のお題目、南無妙法蓮華経を5000回唱えた」と言う意味である。題目唱和の年もしくは記念碑建立の年月日は寛文8(1668)年 2月15日で、建立者は法華宗(日蓮宗)の信者(檀家)と推定される。碑文内容の現代語訳は次の<>内の通りと思われる。<寛文8戊申(つちのえさる、ぼしん) (1668) 年2月15日に南無妙法蓮華経を法界のために5000回(編)唱和達成し、奉納した>なお、このような題目5000回唱和の記念碑は全国でも珍しいと思われる。(掲載日:2014年8月17日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑

題目淵の碑文(だいもくぶち の ひぶん)  所在地:大村市上諏訪町(山田川の右岸の岩壁)
<概略説明> この碑文は上諏訪町を流れている山田川(大上戸川の上流域)の右岸(高さ10m〜20m位ある)岩壁の下部に彫ってある。その場所は山田神社から約200m登り降りして行き、山田の滝の手前約70m付近にある題目淵が目印となる。この淵の名称は本碑文が彫ってある岩壁の前にあるからである。文字が彫ってある範囲内は高さ約1m20cm、横幅約1m10cmである。碑文中央部に日蓮宗の題目である「南無妙法蓮華経」があり、通称”ひげ文字”と呼ばれている独特の文字で彫ってある。他に経典からの文字、願い事、建立場所、建立者、建立年月日などがあり、本経寺第8代住職の日迢(にっちょう)の花押(署名)も中央下部にある。この碑文は元禄13(1700)年9月19日、本経寺の日迢などによって建立されたと思われる。(掲載日:2019年1月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)山田の滝、山田神社周辺の石碑、2)題目淵の碑文

高野大権現(たかのだいごんげん)  所在地:大村市今富町
<概略説明> 高野大権現は今富町ながら野田町に近い位置にある。この境内には馬頭観音もある。境内横には元々、溜め池(高野権現堤)があったが、今は埋め立てられているため広い敷地(境内)みたいに見える。春は境内周囲の桜が咲き綺麗な所でもある。(掲載日:2011年10月8日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『高野大権現

高野堤(たかのつつみ)  所在地:大村市野田町
<概略説明> この高野堤(ため池)は野田町の旧・字(あざ)「高野(たかの)」周辺にある。築堤の年代は記録がないため不明である。ため池の中央部西側に(小さな島みたいな)石垣があるのが特徴である。本来の目的は田んぼへの潅漑(かんがい)用に築堤されたものである。水道施設ができる前までは右写真の手前側では例えば野菜洗い、洗濯、風呂水など生活用水としても使用されていた。現在は一部の田んぼ用を除き生活用途としては用いられていないため池の中に草がはえている。ため池の大きさは(現在の)目測で南北間(横幅)が25m弱、東西間(縦)で10m弱に見えるが、江戸時代の(大村)郷村記によれば縦・横とも長さが違う。その理由は現時点では不明である。(掲載日:2019年9月23日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)
高野堤

高野の馬頭観音(たかのばとうかんのん)  所在地:大村市今富町
<概略説明>
 高野の馬頭観音は今富町、高野大権現の鳥居脇(西側)にある。建立年は文化5 (1808 )年12月で建立者は今富村の修行者・安次郎である。本体の大きさは高さ77cm、横幅30cm、胴囲77cmである。蓮華座下部に先の建立年や建立者名とともに(現代語訳で)「天下泰平、国土安全を祈願し日本諸国を廻って法華経を奉納する」との碑文がある。この碑文は馬頭観音として「馬の神様」みたいなことが何も彫られていない。これ自体、大村市内では珍しい文章である。本像は彫りの深いレリーフ調でインド彫刻にも似ている。江戸時代建立の馬頭観音では水準の高い出来栄えである。(掲載日:2014年7月24日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)高野の馬頭観音

(大村海軍)竹松通信所跡 所在地:大村市原口町(市営原口アパート敷地)
<概略説明> 地元伝承によると原口町で現在は大村市「市営原口アパート」の敷地と、ほぼ同じ所に戦前、次のように地元で呼ばれていた様々な名称の軍事施設があった。そそれは、「竹松通信隊」「海軍通信所」「通信所」である。なお書籍「放虎原は語る」(付録の地図)には「竹松通信隊」と書いてある。この通信隊の敷地の西側(国道34号線方向)に「海軍用地」と彫られた境界標柱(境界杭)2基が現存している。その大きさは目測ながら両方とも同じで(コンクリート製の真四角の一辺の長さ)約20cm。北側が約30cm、南側が約25cmである。この通信所の主要目的は近くに大村海軍航空隊があったので、その関係の交信であったろうと推測される (掲載日:2024年9月2日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『(大村海軍)竹松通信所跡』 『大村海軍航空隊

 
田崎俊作氏の吉野桜の寄贈記念碑(たさき しゅんさく し の よしのざくら きそうきねんひ)  所在地:大村市松原本町5番地1、大村市立松原小学校
<概略説明>
 この記念碑は大村市立松原小学校の校門近くで運動場の脇にある。本碑に彫られた碑文には最上部が大文字で「吉野桜50本」、2行目が中文字で寄贈年月日と思われる「昭和63年10月21日」(1988年10月21日)、3行目に(前同)「寄贈 田崎俊作 氏」とある。つまり、田崎俊作氏が1988年10月21日に吉野桜(苗木)50本を寄贈して下さったので、そのことを感謝して建立された記念碑ということである。本記念碑自体の建立者名は彫ってないが、碑文内容からして、おそらく同校(育友会)や松原地区の関係者が建てられたと推測される。本体(自然石)の大きさは高さ97cm 、横幅:94cm、胴囲2m38cmである。 (掲載日:2020年5月23日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『田崎俊作氏の吉野桜の寄贈記念碑

  (準備中) -----

立石様(たていしさま)  所在地:大村市草場町
<概略説明>
 草場町公民館から西南西方向へ115m下った市道の東側脇(道路より一段高い畑の端側)に「立石様」と通称されている自然石がある。大きさは高さ130cm、横幅160cmである。大村市内あるいは全国でも「立石様」、「石立様」と呼ばれている石や地名が多くあるが、そのいずれもが「古代の道(官道)」の道標(どうひょう=道しるべ)跡といわれている。この「立石様」の元あった場所は今の場所より10数メートル東側に行った里道(赤道)脇にあったが、田んぼ(畑)の圃場整備(基盤整備)時に現在地に移されたと言う。草場町を南北ほぼ直線に縦断する市道は古代肥前国時代の「古代の道跡」ではないかと言われてきた。その道周辺に「立石様」はあったので、「古代の道(官道)の道標」と言われている。草場町と旧・草場郷のあった場所付近含めて、地名(字=あざ)として「高縄手(高くて真っ直ぐな道)」、「京辻(都を望むような十字路)」、「馬込(馬を泊めておく所)」、「辰ノ口(東南東方向)」、「立石(道標の石がある所)」などもあり、これらの地名は「古代の道と駅」と関係しているとも言われている。(掲載日:2015年11月8日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)立石様

太郎岳大権現跡(たろうだけだいごんげんあと)  所在地:大村市重井田町
<概略説明> 大村郷村記によれば郡岳(826m)の旧称:太郎岳には奈良時代の和銅年間(708〜715年)太郎岳大権現が開山した。そして戦国時代の文明年間(1469〜1486年)に多良岳に遷座した。現在でも郡岳の東側八合目付近には本坊跡の平地、山の頂上には礎石跡の4個の石が残っている。なお、西側八合目付近にある坊岩(ぼうのいわ、高さ約40、幅約50m)の名前の”坊”の由来は、この本坊からである。(掲載日:2012年3月30日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『太郎岳大権現


丹投石(たんとうせき)  所在地:大村市福重町(妙宣寺の境内)
<概略説明> 丹投石の意味は「キリシタン()がげたである。その時期は正確には不明ながら、妙宣寺が現在地に引っ越してきた1614年の後頃と思われる。その名称の由来はキリシタン禁教後に広まった仏教や妙宣寺に恨みを抱いたキリシタンが裏山から大きな石(自然石)を本堂破壊を目的に投げたということからである。丹投石は江戸時代から昭和時代初期までは本堂裏庭にあったが、昭和4(1929)年11月15日に(深重山妙宣寺を)開山(創建)した日順上人(にちじゅん しょうにん)没後300年の時、現在地に記念碑として檀家で建立したものである。(掲載日:2014年7月13日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
丹投石

檀の熊野権現(だんのくまのごんげん)  所在地:大村市今富町
<概略説明> 今富町の段にある檀の熊野権現は民家の裏山方向(段の集会場から直線で百数十メートル)にある。大村郷村記によれば(現代語訳で)「正保(しょうほ)の年代(1644年から1647年)に建立。延宝六年(1678年)2月に再建。神殿が萱(かや)ぶきだったので文化8年(1811年)の3月に石祠を建立した」と書いてある。(掲載日:2012年3月26日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『檀の熊野権現


段の大日如来(だん の だいにちにょらい)  所在地:大村市今富町
<概略説明> 段の大日如来(文字塔)は今富町の段にある熊野権現の鳥居横(西側)にある。建立年は昭和23(1948)年1月19日で、建立者は段の郷民(町民)である。本体の大きさは高さ61cm、横幅34cm、胴囲90cmである。碑文は表面の「大日如来」の大文字、裏面の「建立年」などの中文字とも鮮明に見えている。この段の大日如来は福重地区内ならば「草場の大日如来(文字塔)」に造りが似ている。(掲載日:2021年1月17日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
段の大日如来

 (準備中) ----

段の馬頭観音(だん の ばとうかんのん)  所在地:大村市今富町
<概略説明> 段の馬頭観音は今富町の段にある熊野権現の鳥居横(西側)にある。建立年は明治17(1884)年10月で、建立者は福重村段郷(町)である。本体の大きさは高さ58cm、横幅33cm、胴囲86cmである。形状は三面六臂の立像である。この立像形式は福重地区内では一体だけだ。他の馬頭観音と比べたら左右の袖(そで)部分が広く、これも大きな特徴と思える。それに頭部、面(顔)、袖、足、蓮華座などと各パートがけっこう明確に分かりやすい造りである。あと土台が石像本体の大きさに比べて、かなり大きい。(掲載日:2014年8月16日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
段の馬頭観音

 (準備中) -----

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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