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大村辞典
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這坂(へーざか) 所在地:大村市平町
<概略説明> 平町の字(あざ)「矢櫃(やびつ)」の鈴田川を挟んで反対側(諫早方面側)に通称で「這坂(へーざか)」という急な坂がある。現在は山林である。この名称の由来は住みよい町づくり「チーム鈴田設置の史跡説明板によると次の<>内が書いてある。<元亀三年(一五七二・戦国時代)に、武雄・平戸・諫早の軍勢が大村純忠の居城である三城城を攻めた(三城七騎籠りの戦いの)時、純忠の家臣の一人、横山の住人(現在の平町一九七八番地)冨永又助が巧妙な策によって、諫早軍の総大将大渡野(尾和谷)軍兵衛を切りつけ、諫早勢は命からがら逃走しました。その際、諫早軍が武具全て、矢櫃(矢を入れる箱)まで捨て去って下ったところから、そこを「矢櫃(やびつ)と呼び、また、這うようにしてよろけ登ったので、「這坂(へーざか)」というようになったと言い伝えられています> この通称の呼び方は当時から長年伝承されきたので「這坂(へーざか)」と定着してきたと思われる。ただし「矢櫃(やびつ)」みたいに地名=字(あざ)にはなっていない。(掲載日:2020年6月6日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『(史跡説明板)矢櫃・這坂(やびつ・へーざか)

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平四郎水神(へいしろう すいじん) 所在地:(取水口は)大村市寿古町
<概略説明> この水神は平四郎堰や平四郎井手(用水路)の守り神である。この場所は郡川 の寿古町側にある平四郎堰(へいしろう せき) の取水口から堤防(道路)や畑を挟んで北北西側に約40m行った所にある。また、ここには水神本体以外にも南側へ倉庫、電気ポンプ、井戸などがある。この水神本体の表と裏面に彫ってある碑文を口語訳すると次の「」内通りである。「平四郎水神  昭和60(1985)年2月に建立した。 <平四郎堰や平四郎井手(用水路)から水が供給されている>総耕作地(田畑)の面積は、13町(約13万平方メートル)である。 その受益者は(平四郎井手組合の)前田組合長(はじめ)、外(ほか)37名である」 なお水神本体の石の大きさは高さ88cm 、横幅66cm 、胴囲1m56cm である(掲載日:2021年10月1日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『平四郎水神』 『平四郎堰(平四郎井手)

平四郎堰(平四郎井手)(へいしろうせき、へいしろういで) 所在地:(取水口は)大村市寿古町
<概略説明> この堰(せき)と井手(いで)は郡川にある農業用水を取水するための井堰(いせき)と、用水路のことである。井堰は現在、可動堰で大きさは高さ1.64m×長さ33.50m×2門(合計67m)である。郡川の右岸(寿古町側)に取水口がある。そこから井手(用水路)を通じて寿古町の耕作地(田畑)に水が供給されている。江戸時代の(大村)郷村記によれば、この井手から供給されている耕作地(水田)面積は約40,346平方メートルである。ご参考までに、この堰周辺から郡岳(826m)・武留路山などの山並みを始め、その山麓や郡川などの眺望は美しい(掲載日:2021年7月10日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『平四郎堰(平四郎井手) 平四郎水神

弁天島(べんてんじま) 所在地:大村市杭出津1 丁目(臼島から繋がっている東側の小島)
<概略説明> 弁天島は目測ながら周囲約230m、南北約115m、東西約20mの細長い島である。干潮時に臼島から陸続きとなる。島内には松や雑木が生えていて弁財天や石灯籠などがある。海岸線は全体明るい感じの砂岩系の岩場で縞模様や「蜂の巣状風化」の石などもあり、まるで自然の造形美である。美しいだけでなく太古からの海岸線が自然のまま残っているので大村の貴重な財産と言える。
(掲載日:2012年12月27日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)弁天島

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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