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大村辞典
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大村辞典 く”の項目

く”の項目
空襲柿の木(くういしゅう かきのき) 所在地:長崎県大村市陰平町(個人宅の敷地内)
<概略説明> 1945(昭和20)年7月5日の正午頃、陰平町の釜河内で空襲があった。全焼になった民家の敷地内にあった柿の木2本(門口付近の1本と、家屋の裏手付近の1本)も燃えた。しかし、幹の中央部が溝(空洞)になりながらも裏手付近にあった柿の木は、その後も約75年間(2020年現在)成長を続けてきた。(目測ながら)高さ約5m、幹回り約1mある。これが空襲柿の木の由来と現在の状況である。あと、この空襲柿の木は幹が空洞になるくらいに焼かれながらも必死に生きてきた(成長してきた)植物の生命力のたくましさと、同時に釜河内空襲ひいては大村空襲を実際の姿で今に伝える”生き証人”だともいえる。(掲載日:2020年12月22日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『空襲柿の木』、「釜河内の空襲

草場の経筒その1、その2(くさば の きょうづつ) 所在地:大村市草場町(個人宅)
<概略説明>この「草場の経筒その1、その2」は如法寺跡(民家周辺)から北北東側方向へ約100m行った畑の中から戦後に出土したと言われている。この「その1、その2」は保存状態が良かったため洗浄し磨かれた後に所有者の本宅に置物のようにしてあった。
平安末期から鎌倉時代初期頃、末法思想が流行った。永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えた。そして、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めた。大村には現存する経筒が5個あるが、その内の3個が「草場の経筒その1、その2」「その3」である。大きさは「その1」が高さ45cm、幅16cmで、「その2」が高さ34cm、 幅17cmである。石の材質は滑石で中をくり抜いて造ってある。手触りは滑らかながら見た目より重たい。推測ながら、この石は西彼杵半島産出のものと思われる。詳細は下記から参照(掲載日:2014年5月17日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ『草場の経筒その1』、『草場の経筒その2
』、「大村の経筒、草場の経筒その1、その2」  関連:如法寺跡

草場の経筒その3(くさば の きょうづつ) 所在地:大村市草場町(個人宅)
<概略説明>この「草場の経筒その3」の大きさは高さ約36cm、幅約20cmである。上記の「その1、その2」と出土場所はほぼ同じ如法寺跡(民家周辺)から北北東側方向へ約100m行った畑の中から戦後に出土したと言われている。「その1、その2」は保存状態が良かったため洗浄し磨かれた後に所有者の本宅に置物のようにしてあった。それに比べ「その3」は表面の数か所に傷などがあったためか出土当時のままで倉庫内や本宅への通路で2018年10月16日に再発見されるまで保管されていた。そのため(平安末期頃の)経筒制作当時の加工痕まで分かるものである。
平安末期から鎌倉時代初期頃、末法思想が流行った。永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えた。そして、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めた。大村には現存する経筒が5個あるが、その内の3個が「草場の経筒その1、その2、その3」である。いずれも石の材質は滑石で中をくり抜いて造ってある。手触りは滑らかながら見た目より重たい。推測ながら、この石は西彼杵半島産出のものと思われる。詳細は下記から参照(掲載日:2019年10月18日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページ『草場の経筒その3』、関係:「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」、関連:如法寺跡

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草場の単体仏(くさば の たんたいぶつ) 所在地:大村市草場町
<概略説明>草場町には経塚の上に乗っていたと思われる単体仏がある。この石仏はどこからか移設されたと思われる。経筒を埋めた経塚や、その上の単体仏の造られたのは同時期で平安時代末期と推測されている。全体の大きさは高さ43cm、横幅23cm 、仏部分は高さ31cm、幅23cm、台座の高さ4cm、幅22cmである。石材は滑石で西彼杵半島産出のものと思われる。大村市内には同種の単体仏は合計9体(福重地区に8体、松原地区に1体)あるが、その中では最大の大きさである。
(掲載日:2016年10月20日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『草場の単体仏
  関連:(論文集紹介)「滑石製の仏像

草場の二体仏(くさば の にたいぶつ) 所在地:大村市草場町、松尾神社(まつのおじんじゃ)の境内
<概略説明>草場町にある松尾神社の境内東側に男女(夫婦)と思われる二体の石仏がある。二体仏に向かって左側(女性と思われる)は高さ27cm、横幅20cm、奥行き13cm で、右側(男性と思われる)は高さ27cm、横幅23cm、奥行き13cmである。制作は江戸時代中期の作と推定されているが正確には不明である。なお、江戸時代編纂の(大村)郷村記には松尾神社の二体仏としては記述されていないことから、どこからか運び込まれたものと思われる。なお、同じ(大村)郷村記には(現代語訳で)「(字)東光寺に石仏がある。石で切りつけられた(石で作られた)二体である。田んぼの畔にある
」との記述がある。松尾神社より西へ約450m離れた田んぼ周辺の東光寺は元・草場郷(町)だったので、この二体仏が移設されて来た可能性もある。(掲載日:2014年5月17日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『草場の二体仏

草場の大日如来(くさば の だいにちにょらい) 所在地:大村市草場町松尾神社(まつのおじんじゃ)の鳥居の東側
<概略説明>草場町にある松尾神社の鳥居と階段横(東側)付近に草場の大日如来はある。建立年は昭和29(1954)年で、建立者名は碑文には彫ってないが当時の草場郷(町)の方々と思われる。本体のみの大きさは高さ57cm、横幅34cm、厚さ(奥行)19cm、胴囲95cmである。この大日如来は石像式ではなく自然石に碑文だけが彫られている文字塔式である。なぜ、ここに大日如来が建立されたのかと言う詳細な理由は地域伝承として残っていない。ただし、鳥居を挟んで反対側(西側)に草場の馬頭観音があり、これと関係して建立されたとの話もあるが、正確には分かっていない。
(掲載日:2014年10月5日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの
草場の大日如来

草場の馬頭観音(くさば の ばとうかんのん) 所在地:大村市草場町松尾神社(まつのおじんじゃ)の鳥居の西側
<概略説明>草場町にある松尾神社の鳥居と階段横(西側)付近に草場の馬頭観音はある。建立は大正9年(1920)年で、建立者は当時の草場郷(町)の人達である。本像の大きさは高さ35cm、横幅29cm、胴囲109cmである。この馬頭観音は彫りが繊細なのが特徴で特に頭部や手の造りが細かい。また、蓮華座を(まるで省略したかのように)本体下部に図柄(模様)で描いてある。光背部分は極端に小さい造りと言える。あと、拱手している両手、両側の浮き上がったように見える模様、髪の毛の細かさなどは石工の技術の高さも感じられる。
(掲載日:2014年6月20日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの『草場の馬頭観音

玖島崎樹叢 (くしまざき じゅそう) 所在地:大村市玖島一丁目、大村公園>
<概略説明>樹叢(じゅそう)とは、「植生によらない、自生した樹木が密生している林地。神社境内の社叢などに見られることが多い。」(実用日本語表現辞典実用日本語表現辞典より)  玖島崎樹叢は大村公園内、玖島城跡の主に「二の丸」周辺に広がる自然樹林である。その樹林内には、クスノキ、シイノキ、ナナメノキ、ヤマモガシ、ヤマモモ、バクチノキなど主に暖地性の樹木があり、また 大陸性のコバノキチョウセンエノキも見られる。樹下には、クンマザサ、イワガネ、シロヤマシダ、ホウチャクソウ、ムサシアブミなど珍しい植物が生えている。特に注目されることは、諫早が北限とされていたヒゼンマユミが樹叢内でいくか発見されたことでである。この樹叢は、自然保護の上からも、学術的にも、極めて貴重なものであり、昭和49年の県の天然記念物に指定された。現在も自然の状態で保護されている。(掲載日:2024年12月1日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの史跡説明版の『玖島崎樹叢

玖島城(くしまじょう) 所在地:大村市玖島一丁目
<概略説明>玖島城は大村藩初代藩主になった大村喜前(よしあき)が慶長4年(1599年)に築城し、12代藩主まで大村氏の居城だった。完成後も幾度となく後世に改修されたことと、近代・現代になって公共施設などが建てられたので築城当時の城遺構は一部を除き見られない。現在ある本丸跡、石垣、堀、空堀、お船蔵跡、新蔵波止跡などは、ほぼ全て江戸時代に築造・改修されたものである。板敷櫓は築城当時から江戸時代や近代通して現在ある構えの大きい櫓が存在したとの説は間違いと言われ、むしろ櫓などがなかったことが長年の本来の姿である。
(掲載日:2015年8月22日)
<関連詳細ページ>・福重ホームページの玖島城

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久原城(くばらじょう) 所在地:大村市玖島一丁目
<概略説明>注意を先に書くと、この久原城は江戸時代の大村藩によって創作(偽装)の文書内容で記述された城である。近代・現代書籍類も江戸時代の記述をそのまま引用して書いてあるものは同じく創作(偽装)内容である。なお、先の創作(偽装)のことについては『日本城郭大系 17』(新人物往来社 1980年11月発行)の128ページにも、初代の大村氏のことや、この城に居城したことなどについて、「信憑性に乏しい単なる後世の創作説話であると思われる」とか「直純の久原入場説もまた信じえない」など同様のことが書いてある。
(掲載日:2015年8月4日
<関連詳細ページ>・福重ホームページの久原城

黒田の馬頭観音(くろだ の ばとうかんのん) 所在地:大村市黒丸町、十六善神の境内西側
<概略説明>黒丸町、十六善神の境内西側(お堂に向かって左側)にある。ただし、元々あった場所は同じで境内でも10m位東側で少し盛り上がった所にあったと言う。建立年月日は土台石の碑文によると明治23 (1890)年11月19日である。本像の大きさは高さ41cm、横幅22cm、胴囲59cmである。像の基本形は三面六臂(さんめんろっぴ)である。左側中央部の右手周辺に欠損などあるが保存状態は良い。
(掲載日:2015年8月28日
<関連詳細ページ>・福重ホームページの黒田の馬頭観音

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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