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大村辞典
はじめに
もくじ
大村辞典

”て”の項目


”て”の項目

てぼ屋敷(てぼやしき)  所在地:大村市沖田町
<概略説明> 「てぼ」とは籠(かご)やザルのことである。大村市立郡中学校の運動場側校門から、ほぼ真東へ約130mいった朝長家の敷地は昔から「てぼ屋敷」と呼ばれたきた。同家
所有の系図によると平安時代後期頃から続く家柄で長年大村家に仕えていた武士(重臣)の家系だった。戦国時代の元亀3年(1572年)に武雄の後藤氏、諫早の西郷氏、平戸の松浦氏の軍勢から大村純忠が居城していた三城城が急襲された「三城七騎籠り(さんじょうしちきごもり)」の戦が起きた。この時、武士の一人が籠(かご)=「てぼ」に脇差(わきざし)を隠して三城城に入り、窮地を救った。その「てぼ」は朝長家に置かれたと言い、その後「門外不出の宝」として大事に保管され代々伝わってきた。そのような由来から、この敷地を昔から「てぼ屋敷」と呼ばれてきた。このことは江戸時代・大村藩によって編さんされた(大村)郷村記に同内容が記述されている。 (掲載日:2015年11月9日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)てぼ屋敷

寺島(てらしま)  所在地:大村市玖島1丁目
<概略説明> 島名の由来は以前ここに仏教寺院の寺嶋山吉祥院があったことに由来している。島内は手入れが行き届いているため無人島とは思えないくらい綺麗である。ここから見る遠景や近景も抜群である。なお、島内には歴史についての案内板があるが、この中の「大村直純」部分が書いてある。この説には何の裏付け史料もないもので江戸時代に大村藩が創作(偽装)内容で、今では間違っていると言われている。
(掲載日:2012年3月16日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)寺島

寺本久津の馬頭観音(てらもとくず の ばとうかんのん)  所在地:大村市松原2丁目(無量寺の階段脇)
<概略説明> この馬頭観音の所在地は松原2丁目にある無量寺の本堂に登る階段脇右側(南側)にある。ただし推測ながら最初から現在地にあったものではなく、建立当初は旧・松原村の寺本郷か久津郷の例えば道路脇などにあったものではないかと考えられる。石像本体の大きさは高さ40cm、横幅25cm、胴囲65cmである。本体下部に馬頭観世音 寺本久津馬頭講車中との碑文があり、これを現代語訳すると「馬頭観世音(馬頭観音)を(松原村の)寺本(郷)と久津(郷)の馬所有者で建立した」と思われる。石像の(基本形は)三面六臂(さんめんろっぴ)の座像である。特徴として三面の顔部分や三組の腕の中で一番下側の拱手(きょうしゅ)している腕部分が大きく突き出していている。それ以外にも肩、頭部なども繊細で見事な石像である。
(掲載日:2018年3月4日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページ・馬頭観音シリーズの)寺本久津の馬頭観音


天狗岩(てんぐいわ)  所在地:大村市重井田町(字)「天狗通(てんぐ とおし)」
<概略説明> この天狗岩は天狗伝説関係の岩(石)としては最も有名である。(現在は宗教施設なっている) この岩がある場所の字(あざ)は「天狗通(てんぐとおし)」である。この「天狗通」の意味は文字通りで「天狗が通った(飛んだ)所」が由来と思われる。つまり、地名からして天狗伝説が色濃い場所でもある。しかも重井田町を貫ている市道から歩いて行ける場所にある。天狗伝説上では(概略)「(天狗の飛び立ち石から)天狗が飛び立ち、飛び方が下手で怪我をして血を流し(赤岩)、そして大きな石に休憩し(天狗の足跡石)、最後に飛び乗った岩が、この『天狗岩』といわれている(掲載日:2018年11月18日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
天狗岩と御手水の滝(裏見の滝)

--準備中--

天狗通(てんぐ とおし)  所在地:大村市重井田町(字)「天狗通(てんぐ とおし)」
<概略説明> この字(あざ)「天狗通(てんぐ とおし)」は重井田町の天狗伝説に関係した地名である。この地名の由来や意味は文字通りで(地元伝承で)「天狗が通った(飛んだ)所」と思われる。こには現在、宗教施設にもなっている天狗岩がある。天狗伝説の概略は「天狗の飛び立ち石」から天狗が飛び立ち、飛び方が下手で怪我をして血を流し(そこが)「赤岩」、そして大きな石=「天狗の足跡石」に休憩し、最後に飛び乗った岩が、「天狗岩」といわれている。 その中で「天狗岩」が最も有名である。この岩がある周辺を大昔から字(あざ)「天狗通し(てんぐとおし)」と呼ばれてきたので現在も地名として残っている。 (掲載日:2019年10月11日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『天狗伝説の石や地名』  
天狗岩と御手水の滝(裏見の滝)』   『天狗の足跡石

天狗の足跡石(てんぐ の あしあと いし)  所在地:大村市重井田町(佐奈河内川の左岸)
<概略説明> この石の別名は地元で「八枚敷
(はちめいじき:大村弁)と呼ばれいる。その由来は石の頭部が真っ平で「タタミ8畳」以上あるためである。石の大きさは目算で高さ4m、頂上部の長さは南北約5m、東西約7mくらいである。石の色はやや褐色である。頂上部の平らな面には長さ約50cm〜約90cmの足の形をした模様がいくつかある。「重井田の天狗伝説」と、このことを由来に伝承ながら「天狗の足跡石」と昔から呼ばれてきた。なお、この川の中にある大きな石周辺は昔の子どもたちにとって「川遊びを良くしていた」場所でもあった。 (掲載日:2018年11月12日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
天狗の足跡石

天狗の飛び立ち石(てんぐ の とびたちいし)  所在地:大村市重井田町 字(あざ)赤岩
<概略説明> この石は「重井田の天狗伝説」に関係している。伝承(伝説)上では「天狗が飛びそこなって怪我をして血を流して、この付近が赤くなった」という内容で、その「飛び立った石」である。この岩の頂上部は真っ平で、そこに「彫りの深い足型(長さが約40cm、幅が約22cm)と、
もうひとつ足型(長さ約39cm、幅15cm)のくぼみがある。他にも足形に似た模様線もいくつかある。頂上部の石の大きさは重井田町(北側)方面に向かって、横幅(東西の幅)310cm、縦(南北)230cmである。 (掲載日:2018年11月14日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
天狗の飛び立ち石

天正遣欧少年使節顕彰之像(てんしょう けんおうう しょうねん しせつ  けんしょう の ぞう)  所在地:大村市森園町(森園公園の西北端部)
<概略説明> この天正遣欧少年使節顕彰之像は4少年
(銅像正面の左側から順番に伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)が長崎から旅立った1582年から数えて400周年を記念して1982年頃に建立されたと思われる。(注意:4少年の往復旅行、ヨーロッパでの歓迎、評価、帰国後の苦難などの記述は省略) 所在地について、この「天正遣欧少年使節顕彰之像」、「天正遣欧少年使節400年記念碑」と「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント」の3基とも同じ大村市森園町、森園公園の西北端部(通称「空港入口」)で半径15m内にある。台座上部に黒御影石と思われるプレートに金色で「天正遣欧少年使節顕彰之像」と彫られている。大きさについて、銅像本体(伊東マンショの場合)目測で高さ約150cmである。銅像4体の下部にある台座(二つの土台)の大きさは合計の高さ約2m、横幅4m60cm、奥行き1m12cm、周囲約11m45cmある。(掲載日:2023年6月25日)
<関連詳細ページ>(福重ホームページの)「天正遣欧少年使節顕彰之像
<関係ページ>(福重ホームページの 「天正遣欧少年使節400年記念碑」  「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント

天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント(てんしょう けんおうう しょうねん しせつ の なんばんせん もにゅめんと)  所在地:大村市森園町(森園公園の西北端部)
<概略説明> この「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント 」(略称「南蛮船モニュメント」)は大村市森園町、森園公園の最西北端部(通称「長崎空港入口」)にある。同所にある「天正遣欧少年使節顕彰之像」、「天正遣欧少年使節400年記念碑」も3基一体で同じ建立趣旨、建立(建設)年であろう。つまり、この天正遣欧少年使節の4少年
(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)が長崎から旅立った1582年から数えて400周年を記念して1982年頃に建立されたと思われる。ただし、この南蛮船モニュメントには、碑文プレートなどがないため「天正遣欧少年使節400年記念碑」の碑文を参照すれば1982(昭和57)年9月20日頃に建設されたと推測される。この形は南蛮船をイメージして船の本体部はないが3本マスト、ステイ(支線)や帆などを思い切りイメージ化したものであろう。その大きさは、メインマストの高さが目測で約5m、前後2本のマストが(前同)約4m、マストの間隔が約2m70cmあり、帆の両端間の長さは約11m、奥行き約3m50cmである。(掲載日:2023年7月12日)
<関連詳細ページ>(福重ホームページの) 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント

<関係ページ>(福重ホームページの「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節顕彰之像

天正遣欧少年使節400周年記念碑(てんしょう けんおう しょうねん しせつ 400ねん きねんひ)  所在地:大村市森園町(森園公園の西北端部)
<概略説明> この碑は森園町の西北端部(通称「長崎空港入口)にある。なお、この天正遣欧少年使節400年記念碑、「天正遣欧少年使節顕彰之像」(4少年の像)、「天正遣欧使節の南蛮船モニュメント」は、3基一体のものと思われる。つまり、先の3基とも天正遣欧使節の4少年'(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)が長崎から旅立った1582年から数えて400周年を記念して建立(本碑は1982年9月20日)されたものである。正面碑文は国文学者の福田清人氏による文と書である。原文は縦書きであるが横文字に直すと次の〈 〉内通りである。<天正遺欧少年使節讃   天正十年(西暦一五八二年)千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン、伊東マンショは大名 大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の少年使節として神父ワリニアーノに伴われ 長崎港を出帆した。ミゲルは純忠の甥、マルチノとジュリアンは大村領に生まれた。 天正一二年ポルトガルを経て苦難万里の旅路の果 スペイン国王 ローマ教皇に謁見し使命を果たすと共に接した人々に その勇気賢明礼節を感銘させ また 日本の存在を強く印象づけた。 日本文化に影響を残す多彩な品々を携え 天正一八年帰国したが 急変した時勢のため逆境にありながらも信念を貫いた。 長崎出発四百年に当たる今年 今は世界の空を結ぶ使節にゆかり深きこの地に その雄図を讃え併せて若き世代にかかる大志の燃え之続けよと念ずる人々この像を建てる。 昭和五十七年九月二十日 文並びに書 福田清人> 裏面碑文は〈建立 昭和五十七年九月二十日  天正遣欧少年使節顕彰会〉の文字が冒頭にあり、会長の大村市長はじめ合計6名の関係市町長名が彫られている。本碑及び台座は南蛮船をイメージしたもので全体の高さは(目測で) 約2m30cm である。(掲載日:2023年7月20日)
<関連詳細ページ>(福重ホームページの)天正遣欧少年使節400年記念碑
<関係ページ>(福重ホームページの)天正遣欧少年使節顕彰之像   「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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