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大村辞典
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野田楽隊(のだ がくたい) 所在地:大村市野田町
<概略説明> 野田楽隊は活躍当時、大村市内で最初の楽隊(ブラスバンド)とも思われ、大変人気があった。この楽隊ができるきっかけは野田郷(町)生まれの浜田彪氏が同郷(町)の青年団に寄付したことに始まる。(浜田彪氏の紹介ページ参照) 浜田氏は1933(昭和8)年に野田郷青年団へ(当時の金額で)100円を寄付されている。この寄付金をもとに当時は珍しかった楽器の購入資金とした。そのこともあり、戦前のいつから楽器購入及び練習・演奏をしたかの記録はないが、1940(昭和15年)頃におこなわれた赤似田堤の堤防かさ上げ工事完成祝い時には、楽器を持った姿が写真に写っているので、既にその前から演奏まで出来ていたと推測される。そして毎年開催されている福重地区敬老会、野岳湖周辺で開催されていた野岳運動会にも参加し人気があった。ただし、現在は野田楽隊はない。(掲載日:2018年3月12日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田楽隊


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野田川(山田川)(のだがわ、やまだがわ) 所在地:大村市野田町、今富町、宮代町
<概略説明> 野田川(山田川)は佐奈河内川の支流で最下流は今富橋の上流で両河川は合流する。ただし源流部は二つに分かれている。一つは野田町にある笠山や赤似田堤(あかにたつつみ)周辺で最下流から1.9km。もう一つは宮代町の高良谷牧場周辺で最下流から直線で約4kmある。この二つの川筋は野田町の字(あざ)「赤似田(あかにた)」の南西端付近で合流している。江戸時代の大村藩領絵図には「山田川」との文字入りでに描かれているが、現在は「野田川」の呼称や表記も多い。最下流域(今富橋から数百メートル上流部)は野田川の流れを二手に分流してある。推測ながら1957(昭和32)年あるいは1962(昭和37)年の水害時に、この周辺にまるで数個の「ため池」ができたみたいに氾濫(はんらん)したこともあり水害対策上もあり北側の水路(両岸はコンクリート)で分けたものと思われる。(掲載日:2018年9月23日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田川(山田川)

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野田機銃台(のだ きじゅう だい) 所在地:大村市野田町
<概要紹介> この野田機銃台は書籍類に記載されていないので地元証言を基に書いている。場所は野田町の通称「辻の花(つじ の はな)」と呼ばれている所に2か所(現在は両方とも畑)あった。標高は約110mで大村湾、長崎空港(旧・箕島)、市街地、多良山系、西海橋、西彼杵半島まで一望できる所である。この機銃台の設置年は正確には不明ながら先の大戦の後期頃かと思われる。地元の古老によれば「グルグル回る2連装の銃座だった。その銃座まわりはコンクリートで固められていた。敷地の広さは全体10メートル四方で深い所は人の背丈ほど(2m近く)だったと思う」とのことだった。その場所は戦後になって全て畑に戻ったが、銃座のあった周囲からコンクリート片も出ていた。ただし、ここは当時、市道からは人(馬)が通れる位の里道(赤道)しかなかった。そのため重い銃、銃弾、物資などを運搬するのは容易ではなく、見晴らし抜群の所ながら機銃(機関銃)を構えただけで、ほぼ使用されなかったのではないかと推測される。そのようなこともあり文書類に残っていないとも思われる。(掲載日:2021年7月29日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『 野田機銃台

野岳湖(のだけこ、野岳ため池、野岳大ため池、野岳大堤 所在地:大村市東野岳町
<概略説明> 野岳湖の名称について江戸時代の大村藩領絵図には「大堤(おおつつみ)」、(大村)郷村記には「野岳大堤(のだけ おおつつみ)」と書いてある。クジラ漁で財をなした深澤義太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)が私財を投じ、江戸時代初期に1年7カ月の歳月をかけて寛文3年(1663)に完成させた人造湖(じんぞうこ)である。主目的は灌漑用(かんがいよう、農業用水確保)ある。湖水の周囲は約3kmで貯水量(ちょすいりょう)は約120万トンと言われている。築堤後、江戸時代だけでも2回の洪水吐(こうずいばき)に設置の横幅約11m、高さ約61p、厚さ約12pの木井桶(きいび)の改修工事がおこなわれ堤防近くに2基の記念碑がある。現代でも堤防からの漏水・下流域への被害防止、農業用水の安定確保などを目的に農村地域防災減災事業(旧ため池等整備事業)が、2008年度の測量や設計から始まり、総事業費7億5千万円(国55%、長崎県25%、大村市20%)で堤防などの工事が8か年おこなわれ2015年3月に竣工した。2010年3月11日、全国ため池百選に選ばれた。野岳湖は多良岳県立公園内にあり風光明媚(ふうこうめいび)な所であり、その湖畔には儀太夫記念館(ぎだいゆうきねんかん)、ロザ・モタ広場、多目的広場、水辺の広場、トリム広場、キャンプ場などがある。毎年5月の連休中には新茶祭りなどで賑わっている。(掲載日:2018年8月15日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページ、全国百選の地シリーズの『
野岳湖(野岳ため池)

(野岳湖)用水路工事竣工記念碑(のだけこ ようすいろ こうじ しゅんこう きねんひ) 所在地:大村市東野岳町
<概略説明> この記念碑は野岳湖へ水を供給する用水路が改修工事(現代式のコンクリートの構造や壁)され、その工事竣工の記念碑と思われる。なお、この用水路は裏面にある碑文内容から推測して、佐奈河内川の源流部近く<重井田水神(通称「大谷水神」の下流>にある定め石の横にある取水口から野岳湖までの長い用水路のことと思われる。この用水路工事の長さは約1.9Kmであった。その工事費用は国・市・地元負担でおこなわれた。主な工事内容は用水路の長さ1,911メートルのコンクリート製の三面張り(両側面と下部面の3面)。落差(段差)のある所は7ヶ所、水を分ける所が3ヶ所、水道4ヶ所)>を施行された。工事期間は1967(昭和42)年10月から開始され、1970(昭和45)年3月に完工している。同年4月12日に竣工式を挙行(開催)された。(掲載日:2023年4月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)「(野岳湖)用水路工事竣工記念碑」 
(全国百選の地シリーズの)野岳湖(野岳ため池)

野田古墳(のだ こふん) 所在地:大村市野田町
<概略説明> 野田古墳は1962(昭和37年)3月、多良山系から伸びた尾根づたいの標高80mの斜面(山林原野)をみかん畑にするため開墾中、偶然、発見発掘された。古墳の主体は両袖式の横穴式石室と言われている。大きさは奥ゆき及び幅とも約2mあった。この石室の上に天井板ような平たい石がかぶさり、その上の盛り土が施され墳丘のようになっていたと思われたが、その大きさまでは当時確認できなかった。また、この開墾時、下側にも2其の古墳があったがブルドーザーで破壊した後だったと言う。さらに、それから約20年後、高速道路・長崎自動車道の工事があった。1990(平成2)年1月26日大村〜武雄北方間の開通前の数年前に、さらに新たに2基ほどの古墳が出土したが、壊された。これにより、野田古墳は合計5基の古墳群だったと思われる。この当時まで先に発掘された野田古墳は現存していたが、移設も保存処置もされなかったため高速道路工事とともに、この1基も壊された、野田古墳は合計5基の出土が確認されたが、現在は何もない。高速道路に架かる高野橋近くにある農道開通記念碑は野田古墳の天井板(平たい石)で、これは今でも残っている。(掲載日:2012年7月9日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田古墳


野田古墳の天井石<農道開設記念碑>(のだこふん てんじょうせき、のうどう かいせつ きねんひ) 所在地:大村市野田町(長崎自動車道に架かる高野橋より約15m南東側へ行った所)
<概略説明> この記念碑は元々、野田古墳の天井石に使われていたものである。この周辺では1964(昭和39)年12月から1966(昭和41)年3月まで農道開設(拡幅)工事が総延長1,331メートルにわたっておこなわれた。その竣工を記念して、この記念碑は1966(昭和41)年4月30日に建立された。全体の高さは約2m93cmある。本体部分は高さ1m43cm、横幅82cm 、奥行24cm、胴囲1m85cmである。形状は全体に平たく、頭部の形が良く、記念碑に向いた石である。そのため土地所有者が野田古墳の天井石を再利用されたものである。(掲載日:2019年5月28日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田古墳の天井石<農道開設記念碑>』、『野田古墳


野田専用水道組合の記念碑(のだ せんよう すいどう くみあい きねんひ) 
所在地:大村市野田町
<概要紹介> この水道は一般には簡易水道と呼ばれているものである。この水道事業発足(1977年当時の)水道事業者や記念碑建立者名は「福重地区簡易水道組合野田工区」である。しかし、その後、先の名称は省略して「野田専用水道組合」などと呼称されてきた。この工事の事業費は大村市と地元負担であった。記念碑のある場所は野田公民館から東方向に約400メートルの小高い所である。ここにコンクリート製の本タンク、野田町4班用に(通称「辻の花」という場所)ステンレス製で減圧目的の補助タンクがある。なお、この水道は発足当初は立福寺町の上地区と共同だった。また、水道の水源は最初、佐奈河内川近くの立福寺町側だった。相当年数経った後、世帯数増などにより野田に新たにボーリングして互いに独立した形で運営されてきた。本記念碑の正面には、沿革、左側面には当時の市長、市関係者名、組合代表者名など、裏面には地元の水道関係者名や事業費、右側面には記念碑の建立年月日や建立者名が彫ってある.記念碑本体のみの大きさは高さ:93cm  横幅:71cm  奥行:25.5cm  胴囲:1m93cmである念のため、この野田水道は2022年度内まで事業を続けるが、大村市水道に変えるための工事を各世帯でおこない、その後は解散となる。(掲載日 2023年3月27日)
関連詳細ページ (福重ホームページの)「(野田地区専用)水道記念碑

野田新地節(のだ しんちぶし) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
 この踊りの歴史は明治時代の後期に諫早の小野島から伝授されたとの説がある。また、『福重青年団史』に「昭和4年から5年頃、北高木郡深海に当時の野田郷青年団が習いに行き、この方々に野田郷まで来てもらい鷲塚家で二昼夜稽古をした」とも記述されている。いずれにしても諫早干拓当時の終末の様子の踊りや歌を当時の野田郷(町)の方々が習われ、福重地区の敬老会、野田での祝宴などの余興として、歌い踊られきた。この踊りの見どころは潟を入れる者と、それを天びん棒で荷う(になう)者、男女が一組となり歌と囃子(はやし)に合わせて、腰を振りながら軽快な動きで面白く踊る所作(しょさ)である。(掲載日:2017年8月21日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田新地節

野田の鍬踊(のだ の くわおどり) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
 この踊りの歴史は大正時代(1912〜1926年)の中期頃、西彼杵郡中浦(現在の西海町)の住人で越田善吉 氏が東北方面へ旅行された時、人と鍬(くわ)とが一体となり喜び、豊作を祝っての踊りに感動され、自分も習い持ち帰られた。その後、大正末期頃、西大村の池田坂口に転勤され当時の野田郷(町)の田川家(現在の越田家)と親戚関係だったので、当時の青年団などに伝授(でんじゅ)されたものである。 その後、郷内(町内)のお祝い、福重地区の敬老会や夏祭りの余興などに踊ったとの伝承もある。野良衣姿の男女が鍬を片手におどる豊年万作踊りである。その調子は明るく軽快な踊りで農民の心意気を面白く表現している。道踊りと本踊りがある。(掲載日:2017年8月19日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田の鍬踊


野田辻小堤(のだのつじ こづつみ) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
 この堤(ため池)のある場所は野田公民館から北西方向へ40m弱行った所にある。築堤の年代は不明である。堤の大きさは(木が山側に茂っているため分かりにくいが)大雑把な目測で南北間が約20m、東西間約10mほどである。現状は野田町にある赤似田堤よりの井手(用水路)から直接、田畑に水は引かれている関係上、このため池の使用頻度(しよう ひんど)は昔ほどではないが、水不足などの時には使われているようだ。(詳細は下記から参照)(掲載日:2020年1月20日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
野田辻小堤

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野田の六地蔵(のだ の ろくじぞう) 所在地:大村市野田町
<概略説明>
  六地蔵は、ほかに六体地蔵とも六面地蔵とも呼称されているが、(大村)郷村記を参照して六地蔵で呼称を統一している。野田の六地蔵は全体の高さは、約90センチで、一つの石のまわりに六体の地蔵がある。(詳細は下記から参照)(掲載日:2006年8月27日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田の六地蔵


野田平原の馬頭観音(のだひらばる の ばとうかんのん) 所在地:大村市東野岳町
<概略説明>
  この馬頭観音は野岳湖公園管理事務所の下側、旧道(湖畔の外周道路)脇にある。土台には碑文が彫ってあり、次の「」通りである。<「昭和四年三月吉日 馬頭観世音 野田平原建立 福重村 石工 吉田若松」 これを現代語訳すると次の<>内である。<馬頭観音を昭和4(1929)年三月吉日に野田平原で建立した)。石工は福重村の吉田若松である> 本体の大きさは高さ57cm、横幅37cm、胴囲77cmである。この馬頭観音は大村市内で他にあまり見られないような珍しい造り、繊細で美しいレリーフである。(詳細は下記から参照)(掲載日:2018年8月3日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『野田平原の馬頭観音


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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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