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大村辞典
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大村辞典 み”の項目

み”の項目
 
三浦かんさく祭り(みうら勘作まつり)(みうら かんさく まつり) 所在地:大村市 三浦地区
<概略説明> この祭りは大村市三浦地区で開催され2017年10月22日で第10回、主催団体は「みうら勘作まつり実行委員会」である。当初の開催場所は旧JA県央三浦支店集荷場周辺だったと思われる。第4回(2011年10月16日)の場所は大村市広報誌によれば三浦小学校周辺と書いてある。そして「三浦かんさく会館」ができた後、第5回(2012年10月28日)から第10回まで、開会式や舞台演目などの場所は同会館である。同時に同会館と広場挟んで反対側にある三浦住民センターでは合同文化展の展示がおこなわれている。祭りの演目内容は年ごとによって当然違うが、例えば第10回では今村浮立の郷土芸能を始め三浦小学校の南中ソーラン、玖島中学校吹奏楽部の演奏など沢山ある。(掲載日:2017年11月16日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)三浦かんさく祭り(みうら勘作まつり)

三日月堤(三ヶ月堤)(みかづき つつみ) 所在地:大村市 立福寺町
<概略説明> この堤(ため池)の名称について、江戸時代編さんの(大村)郷村記には「三ヶ月堤」との記述がある。その郷村記を現代語訳すると、次の<>内が書いてある。<三ヶ月堤 根切長は約28m、根切横は約9.5m。土居長は約62m、築留の横幅は約2m。直立は約4m 、尺八(水量調整用の栓ある所)の長さは約5m。右の堤(注:三ヶ月堤のこと)の、(水を供給する)耕作地(面積)は約8000平方メートルである。 (この耕作地は)藏入(大村藩の直轄地)である。> ただし、現在の三日月堤(三ヶ月堤)の大きさは目測ながら東西(堤防)約70m、南北'(堤面)約46m、堤高約3mである。この堤(ため池)は半円形の形状と周囲の田んぼなどの景色(特に、秋の黄金色に稲穂が実る頃)が美しい所でもある。(掲載日:2018年12月22日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「三日月堤(三ヶ月堤)

箕島(みしま) 所在地:大村市箕島町(長崎空港島)、空港建設工事で埋め立てられた
<概略説明> 箕島は長崎空港建設前まで島として存在し、大村湾内で最大の島だった。大村市の本土側から約1キロ先にあり遠望すると、まるで瓢箪(ひょうたん)を半分に切って海に浮かべた形状をしていた。島名の由来は農器具の箕(み)=「穀物の脱穀、選別するため竹でザルみたいに編んだもの」からではないかと言われている。島の大きさについて江戸時代編さんの(大村)郷村記によれば(現代語訳で)「周囲は約4キロメートルである。(島の長さは)東西436メートル、南北2.2キロメートルである。広さは(畑の面積に換算して)約95万平方メートル(約29万坪)、畑の面積は約28万平方メートル(約8.5万坪)」と記述されている。島の特産物は「箕島大根」、「箕島スイカ」で旧島民の方は「美味しさで”世界一の大根”だった」とか「まさしく、箕島は”宝の島”、”豊かな島”だった」と言っておられた。箕島分校の上の畑から文治元年=西暦1185年に造られた『箕島の経筒(現在は大村市立史料館所蔵)も出土した。この箕島周辺にあった赤島がろう島そうけ島ともに長崎空港建設工事の時に島としてはなくなった。(掲載日:2015年11月21日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)箕島」、「箕島の経筒


箕島大橋の竣工記念碑(みしまおおはし の しゅんこう きねんひ) 所在地:大村市箕島町、県道大村空港線
<概略説明> 箕島大橋は1974(昭和49)年9月に竣工した。橋の長さは980m、幅は約9m(左右の欄干の間)である。この橋の建設目的は1975(昭和50)年5月1日に長崎空港の供用開始(開港)に合わせて架橋された。本碑の設置場所は陸地側(森園公園側)で目印にもなっている天正遣欧少年使節4小年の像周辺からならば約340m、空港に向かって右側(北側)にある港の空港側護岸からならば約50m行った左車線側の欄干にある。碑文は正面に(横2行で)「箕島大橋 長崎県知事 久保勘一」、右側面に(縦2行で)「長崎県特産 北松鷹島石」と彫ってある。なお橋名にもなっている箕島(みしま)は、かつて人も住んでいた大村湾最大の島だった。そして、この「箕島」と、その周辺にあった「がろう島」「そうけ島」「赤島」(合計4島)とともに空港建設の埋め立て工事により無くなった。橋名は島名だけでも残そうということであろう。本碑(本体部)の大きさは高さ1m2cm、横幅1m83cm、下部の奥行き61cmである。(掲載日:2024年4月21日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「箕島大橋の竣工記念碑 」「箕島」、「箕島の経筒」「がろう島」、「そうけ島」、「赤島」,「天正遣欧少年使節4小年の像

箕島の経筒(みしま の きょうづつ) 出土地:箕島(みしま) 、現在の所蔵:大村市立史料館
<概略説明> 箕島は長崎空港建設前まで島として存在し、大村湾内で最大の島だった。箕島の経筒は大村史話(下巻)「箕島の今昔」(志田一夫氏)を参照すると、大正時代末期頃に山口亀太郎氏が当時あった西大村小学校・箕島分校の上の畑から発見した。滑石製で全体の大きさ高さ45cm、周囲97.5cmである。形について、円筒であるが蓋(ふた)の部分は八角形笠型をしていている。経筒の蓋で八角の形状は珍しいと言える。大村史談・第七号(大村史談会、1972年3月発行)によると、「箕島の経筒は、鎌倉時代文治元年(1185)作と伝えられる」と記述されている。経筒の中に入っていたはずの経典は全て紛失している。(掲載日:2016年10月24日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「箕島の経筒」、箕島」、 

溝口寅左衛門の墓碑(みぞぐち とらざえもん の ぼひ) 所在地:大村市小川内町(墓地内)
<概略説明> 大村市小川内町の墓地の一角に戊辰戦争後、福島県の会津若松で治安維持や戦後復興に活躍した大村藩士の墓碑がある。その碑文内容は現代語訳の概要で次の「」内通り。「溝口寅左衛門氏は明治2年(1868年)9月6日に大村を出発、長崎から海路で横浜へ到着し上陸。陸路で会津に到着し、10月7日に若松城に入城し、ずっと警備を担当。翌年に大村へ帰郷」 戊辰戦争そのものを記述した書籍類は大村含めて数多い。しかし、会津で戦後復興のための治安維持活動などへも大村藩士が派遣されたことなどは、今まで知られていない事項といえる。むしろ各戦争そのものよりも長期間かかる戦後復興や治安維持活動などは、その地域やそこに住む人にとって避けて通れない大命題であり、その記録の一端が残っているのは数少ない史料といえる。墓碑本体の大きさは高さ77cm、横幅30cm、奥行28cm、周囲116cmである。(掲載日 2023年7月16日)
関係ページ:(福重ホームページの)「溝口寅左衛門の墓碑(戊辰戦争後、会津若松で治安維持に活躍した大村藩士の墓碑)
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 準備中

妙光寺跡(みょうこうじあと)  所在地:大村市松原1丁目(個人宅)
<概略説明> 史跡説明板を引用すると次の通り。「郡七山十坊の一つ。創立年号は不明。宗旨は真言宗で、寺領は三十六石七升四合。天正二年(一五七四年)異教徒によって破壊される。天保四年(一六四七年)阿弥陀如来を建立。平成十一年、不明とされていた緑泥片岩製の供養塔の一部が発見された。高さ二八センチ、幅二〇・五センチ、その上に高さ一メートルの蓮座を彫り込んだもので、数百年ぶりに日の目を見た」 あと、江戸時代の(大村)郷村記の松原村には「妙光寺蹟 松原村の梶の尾と云所にあり、(後略)」と記述されているが、同じ(大村)郷村記の福重村には、「妙高寺蹟 草場にあり、(後略)」とも記述されている。(掲載日:2021年5月21日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの「史跡説明板シリーズ」の)『妙光寺跡

妙宣寺(みょうせんじ) 所在地:大村市福重町
<概略説明> 深重山妙宣寺(じんじゅうざん みょうせんじ)は慶長7(1602)年に極楽寺跡(現在の宮小路付近)に創建された大村市内最古の法華宗(日蓮宗)寺院である。慶長19(1614)年に矢上郷(現在地の福重町)に移った。1885(明治18)年に大火があり焼失した。そのため現在の本堂は、当時、廃寺となっていた池田山の宝円寺の本堂を買取り移築し、1887(明治20)年に再建された。ここには例えば本堂前にある1887(明治20)年の本堂再建記念碑、大村家と関係ある墓碑、句碑、丹投石、歴代住職の墓地、日蓮の銅像その他、数多くある。 (掲載日:2012年9月1日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「深重山妙宣寺

峯阿乗の碑(みねあじょうのひ) 所在地:大村市寿古町
<概略説明> 戦国時代、宣教師は大村純忠へ他宗教への弾圧を何回も要請し、当初拒否していた大村純忠も後で許可した。結果、1574(天正2)年、キリシタンが大村領内の神社仏閣の略奪、破壊、焼打ちの限りをつくした。この時、僧侶の峯阿乗はキリシタンによる弾圧攻撃を避けるため大村から嬉野方面に逃げる途中、キリシタンによって、この地で捕まり殺害され、死骸は便所に捨てられた。この場所に建てられたのが、墓碑の大日堂である。その墓碑の直ぐ横に大正七(1918)年4月に峯阿乗の子孫達が建立したのが、この峯阿乗の碑である。この記念碑(自然石)の石材は滑らかな良質で、その表・裏両面にはまるで習字(漢字)の手本になるような達筆さで碑文が彫られている。(碑文内容は省略するが、詳細は峯阿乗の碑から参照)(掲載日:2012年3月22日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)峯阿乗の碑」、「大日堂

峯釆女・弾正の墓碑(みね うぬめ・だんじょう の ぼひ) 所在地:大村市宮代町
<概略説明> この墓碑は宮代町の山林の中にある。戦国時代に激戦があった菅無田砦(すがむたとりで)周辺である。菅無田合戦には諸説あって真偽の問題もあるので詳細は書かない。しかし、一応、碑文に彫ってある内容は次の「」内の太文字部分である。「天正五丁丑天十二月十三日(天正5年=1577年12月13日) 峯弾正墓(みねだんじょうのはか) 峯釆女墓(みねうぬめのはか)」 ただし、この碑文は後世に彫られたようで、(大村)郷村記の記述内容と1日違いで、さらに「12月合戦」説は間違いで、本当は6月にあったのではないかとの説もある。むしろ、その6月の合戦説が正しいとも言われている。峯釆女・弾正の墓碑あるいは菅無田合戦については峯釆女・弾正の墓碑ページから参照願いたい。(掲載日:2013年6月22日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)峯釆女・弾正の墓碑

--準備中--

宮崎新田跡(みやざきしんでんあと) 所在地:大村市陰平町
<概略説明> 陰平町の釜川内にある県道の貝津線と鈴田川と海に囲まれた所に広い水田がある。この県道より海側が宮崎新田跡で面積は73,790平方メートルある。海岸には防潮土居(潮を防ぐ土手)があり、その内には塩害を除く方法としてのかなり広い池が造られている。江戸時代の(大村)郷村記によると「文政5年(1822)から着工し、天保3年(1832)に完成した」と記述されている。その造成費は「大村藩の十代藩主・大村純昌の生活費の中から全額出された」とも記されている。干拓田としては現在鈴田地区の一番美しい水田と言われている。この宮崎新田の名称の由来は田んぼ脇の雑木林にある「宮崎様」と呼ばれている碑からである。(掲載日:2017年12月31日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)『(史跡説明板の)宮崎新田跡

弥勒寺跡(みろくじあと) 所在地:大村市弥勒寺町
<概略説明> 弥勒寺町公民館近くの熊野権現横の田んぼは、かつて郡七山坊と呼ばれていた弥勒寺の寺院跡である。詳細は、下記から参照。(掲載日:2007年8月27日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)弥勒寺跡

弥勒寺の経筒(みろくじ の きょうづつ) 所在地:大村市弥勒寺町(個人宅)
<概略説明> 平安末期から鎌倉時代初期頃、末法思想が流行った。永承7年(1052)に末法の世を迎えるとして、ほぼ同時期に発生した数々の天災、飢饉、戦乱と相まって人々は末法の世の到来ではないかと不安に脅えた。そして、釈迦入滅から56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生(人や命あるもの総て)を救済するという弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出現まで経典を残そうと考えて経塚に経筒を納めた。大村には現存する経筒が5個あるが、その内の一つが弥勒寺の経筒である。大きさは高さ34cm、幅11cmである。石の材質は滑石製で中をくり抜いて造ってある。手触りは滑らかながら見た目より重たい感じがする。推測ながら、この石は西彼杵半島産出のものと思われる。詳細は、下記から参照。(掲載日:2016年10月15日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)大村の経筒、弥勒寺の経筒

--準備中--

弥勒寺の熊野権現(みろくじのくまのごんげん) 所在地:大村市弥勒寺町公民館の東側
<概略説明> この熊野権現について(大村)郷村記によれば概要次の通りである。正保4(1647)年に創建され元禄8(1695)年5月、同じ元禄15(1702)年、宝暦二(1752)年2月、天保七(1836)年に再建された。江戸時代当時の神殿は奥行き約2.7m、横幅約1.8m。瓦屋根である。(前同) 拝殿は奥行き約3.6m、横幅約5.4mである。 弥勒寺(郷)の鎮守(守り神様)である。詳細は、下記から参照。(掲載日:2012年7月21日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「名所旧跡」の『弥勒寺の熊野権現

弥勒寺の熊野権現増築記念碑(みろくじのくまのごんげん ぞうちく きねんひ) 所在地:大村市弥勒寺町公民館前
<概略説明> この記念碑は熊野権現と当時の郷会場(現在の弥勒寺公民館)が大正13年頃〜大正時代末期頃(1924〜1926年)に増改築された時のものである。記念碑自体の建立年月日は碑文にない。この碑文には熊野権現の江戸時代、明治・大正時代の歴史を簡潔ながら彫ってある。また増築関係の経緯や(裏面に)寄付金の状況もある。詳細は、下記から参照。(掲載日:2012年12月19日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑

弥勒寺の馬頭観音(みろくじのばとうかんのん) 所在地:大村市弥勒寺町公民館敷地内
<概略説明> この弥勒寺の馬頭観音は弥勒寺公民館敷地内(市道の脇)にある。本体の大きさは高さ51cm、横幅25cm、胴囲76cmである。彫られている碑文などから個人が建立したものである。(前に同じく)建立年月日は明治20(1887)年旧3月19日である。基本形は三面六臂の造りである。詳細は、下記から参照。(掲載日:2014年5月22日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「大村の馬頭観音」の『弥勒寺の馬頭観音

弥勒寺の不動明王(みろくじのふどうみょうおう) 所在地:大村市弥勒寺町公民館敷地内
<概略説明> 弥勒寺町公民館の敷地内(市道の脇)に安山岩の自然石(高さ約168cm)に美しい線刻模様で彫られた不動明王がある。制作者は不明であるが、制作年代の推定は「鎌倉中期から前期」と言われている。 詳細は、下記から参照。(掲載日:2009年9月3日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「名所旧跡」の『弥勒寺の不動明王』、・(福重ホームページの)「仏の里 福重」の『弥勒寺の不動明王

弥勒寺の妙見菩薩(みろくじのみょうけんぼさつ) 所在地:大村市弥勒寺町の山口さん宅(私有地)
<概略説明> (大村)郷村記では妙見菩薩と書いてあるが、地元では「妙見様」とも呼称されている。詳細は、下記から参照。(掲載日:2007年5月5日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)弥勒寺の妙見菩薩

弥勒寺の陽林(みろくじのようりん) 所在地:大村市弥勒寺町公民館敷地内 
<概略説明> 弥勒寺町公民館の敷地内にある自然石(台座を除いて高さ約204cm、横幅約98cm)に、"陽林”と彫られた石碑がある。これ自体がなんなのか含めて制作者、制作年代も不明である。詳細は、下記から参照。(掲載日:2011年2月18日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)「名所旧跡」の『弥勒寺の陽林

--準備中--

ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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