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大村辞典
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大村辞典 き”の項目

き”の項目
菊池澄安の分霊碑(きくち すみやす の ぶんれいひ) 所在地:長崎県大村市三城町
<概略説明> この石塔は「大村市の文化財」((2012年3月19日、大村市教育委員会・発行、98ページ)を引用にすれば次の「」内が解説されている。「菊池澄安は菊池武澄(たけずみ)の曽孫(ひまご)です。武澄は菊池武光(たけみつ)の兄で南北朝時代、征西将軍の懐良(かねなが)親王や惣領武光の命を受け、肥前国を押さえるため北朝軍と戦いました。子孫は代々肥前守と称し、肥前南朝軍の総大将だったと伝えられます。澄安は永享(えいきょう)5年(1433)3月27日に亡くなり」、「南北朝から室町時代前期にかけての大村氏と菊池氏との深い関係を示す史料として、価値の高いもの」 この石塔の大きさは高さ63cm  幅50cm  胴囲1m23cmである。建立年は澄安の死の半年後と言われている。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)菊池澄安の分霊碑

岸高城跡(きしたかじょうあと) 所在地:長崎県大村市中里町
<概略説明> 岸高城は国道34号線の県営バス停「日焼」から北東方向へ約170mの小高い山林にある。この山は東南側が急な斜面で北西側方向へはなだらかに続いている。この場所は大村領と諫早領との境界線へ、あと五百数十メートルの位置関係にある。戦国時代、諫早領から敵が攻めてきた場合、その防御の役目を果たした城(砦)だったと思われる。城遺構として曲輪、切岸、堀切などがある。
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)岸高城』 、 「大村の史跡説明板シリーズ」の『岸高城跡(きしたかじょうあと)

北村西望先生の日蓮像(きたむら せいぼう せんせいの にちれんぞう) 所在地:大村市福重町(妙宣寺・本堂正面)
<概略説明> 北村西望先生は長崎の平和記念像の制作者で日本を代表する美術家、彫刻家である。その先生が妙宣寺、本堂前にある日蓮像を制作されている。台座(土台)含めた全体高は約193cmあるが、本像そのもの高さは約53cm 、横幅約35cmである。日蓮像は目と顔は真正面を向き、両足で大地を踏みしめ、右手には笏(しゃく)を持って力強く前にかざし、左手に経典の巻物を持って、多くの人々へ説法しているような姿形である。 (掲載日:2014年7月2日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)『北村西望先生の日蓮像


旧松屋旅館(きゅう まつやりょかん) 所在地:長崎県大村市松原本町77-1
 <概略説明> 旧・長崎街道の松原宿は現在の大村市松原地区にある北は変配川(へんぱいがわ)付近から南は松原小学校近くを流れている「よし川」付近まで(距離は約640m)をいう。その中心地にあるのが松原八幡神社や茶屋(小休憩所)などであった。その街道筋には松原鍛冶屋、商店や民家など71軒が並んでいた。江戸時代、この旧松屋旅館の所は松原宿当時、旅館ではなく茶屋としてあった。その後、明治時代から昭和40年頃までは松屋旅館を営んでいた。現在(2014年頃から)は、松原宿活性化協議会が地域起こしの拠点として活用されている。その行事一例として「松原宿・寺子屋塾」を始め「松原宿のひな祭り」「松原宿 旧松屋旅館のイルミネーション」「松原朝市」などである。 (掲載日:2022年7月19日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの「大村の史跡説明板シリーズの)「旧松屋旅館

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経ヶ岳(きょうがだけ) 所在地:長崎県大村市黒木町、佐賀県鹿島市と藤津郡太良町
<概略説明> この山は多良山系の主峰で大村市内の山では(長崎県央地域でも)最高峰である。大村市と境界を接している佐賀県では県内最高峰の山である。そのため佐賀県からと大村市内から登山客が多い山でもある。山容は遠近両方から見ても鋭角な三角形をした山である。頂上直下周辺は(東西南北とも)大きな岩ばかりになっていて、登山道はかなり急である。山名の由来は頂上に経典の入っていた経筒もあったように経典(経文)の「経」からといわれている。江戸時代に大村藩が編纂した(大村)郷村記に経ヶ岳のことで先の山名の由来含めて詳しく記述されている。この山には雨も多く降る関係からか、登山道近くも含めて大小の滝も沢山見ることができる。 (掲載日:2018年9月26日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの「大村の自然シリーズ」)経ヶ岳(きょうがだけ)

経ヶ岳の大滝(きょうがだけ の おおたき)<仮称> 所在地:長崎県大村市黒木町
<概要紹介> この滝の名称について、例えば江戸時代に大村藩が編纂した「郷村記」や、その後から現在までの書籍類などに正式名称はないようだ。滝は名称がないと説明しにくいので仮称ながら「経ケ岳の大滝」と呼称する。この滝がある経ヶ岳(1076m)は佐賀県との県境でもあるが、多良山系や大村では最高峰の山である。そのため山の斜面も広くて、小滝や傾斜滝含めれば滝数は多い。この「経ヶ岳の大滝」の場所は大村市黒木町のバス停から大払谷(おおはらいたに)と呼ばれている斜面を経ケ岳を目指して登ると標高約560mの登山道近くにある。滝の落差は目測ながら12m弱だ。この落差約12mが仮に正しければ大村市内では、御手水の滝(通称:裏見の滝、30m)に次いで2番目に高い。なお滝の下部に細い溝や水溜まりはあるが、一般にいわれているような広い「滝壺(たきつぼ)」はない。この滝の周囲全て1枚岩のような岸壁である。滝の水は美味しく「清流の滝」ともいえる。(掲載日:2021年7月31日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの「大村の滝シリーズ」)『経ヶ岳の大滝 (この山については)経ヶ岳(きょうがだけ)

 

教通寺跡(きょうつうじ あと) 所在地:長崎県大村市草場町、字(あざ)「京辻」
<概略説明> この教通寺跡は地元で草場郷(町)の字(あざ)「京辻(きょうつじ)」にあったのではないかと言われてきた。つまり、仏教寺院の「教通寺(きょうつうじ)」があったから、その呼び名と似ている「京辻(きょうつじ)」が、字(あざ)=地名として出来たと推測される。同種のこととして福重には「弥勒寺が弥勒寺町」へ 、「龍福寺が立福寺町」へとなった例がある。教通寺跡について江戸時代の大村郷村記には場所の記載のみである。大村藩領絵図には描かれていない。この寺の創建年代も寺領(石高)も不明である。 (掲載日:2017年2月1日)
<関連詳細ページ>・(福重ホームページの)教通寺跡

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切詰城(きりづめじょう) 所在地:長崎県大村市中岳町
<概略説明> 切詰城は標高約400mの急峻な尾根の上にあり両側は急斜面である。城址全体(建物類は全然ない)は尾根を切り開いて平らにして造った主郭、副郭、細長い廓(曲輪)、見張り台などの跡が、築城の頃(南北朝時代頃か)と、ほぼ同じ形式で残っている。戦国時代を経て、その後も山の上だったため人の手が入りにくかったのか、当時のまま現存している。南北朝〜戦国時代そのままに残っている山城形式の城址としては大村市内で大変貴重と言える。切詰城が載っている史料(資料)類は二つある。一番目が江戸時代に描かれた大村藩領絵図に「切詰城」の名前がある。二番目が(大村)郷村記で「切詰の古城」として詳細に記述されている。この城にまつわる話として、(大村)郷村記に大村純忠が有馬から養子に来て間もなく家臣団の中で色々なことがあり、純忠はその不安定な状況から逃れるために、この切詰城に長期間にわたり身を隠していたように書いてある。ただし、この(大村)郷村記は内容の真偽がつきまとうので注意が必要だ。 (掲載日:2013年2月22日)
<関連詳細ページ>・『(福重ホームページの)
切詰城

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ご注意:この大村辞典(大村歴史観光辞典)は『はじめに』のページでも書いていますが、個人で作成している関係上、用語、内容や解説について、あくまでもご参考程度にご覧下さい。なお掲載後も記述内容などに間違いがあれば、その都度変更していきたいと考えています。

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